≪ PREV | PAGE-SELECT | NEXT ≫
≫ EDIT
2009.05.30 Sat
月に一度、借金の為に私に会いに来る女に私は夢中である。なぜならその女は私の期待した通りの反応をしてくれるからである。これほど嬉しいことはない。
そもそも私のSMは特殊であり少数派である。ある女からは私のSMは具現不可能であるとも言われたことがあるからな。
例えば、「芋茎こけし」。例えば「とまる指」例えば「ペンライト」例えば「筆や羽根」例えば、・・・・・・
ふふふふふ。。。。
使ってみれば分かる。微妙な責めに反応する女は少ないのだ。
| 鬼縄のSM
| 09:27
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2009.05.30 Sat
芋茎こけしというものは濡れてくるとその蜜を吸って膨らむのである。そして膣の内側にぴたりと張り付くようなおぞましい感触をもたらす。そして何より私が好きな痒みを起こす成分を出すのである。
私はこの芋茎こけしを熱いお湯につけて、その効果がすぐに現れるように準備を施して、女の秘部に挿入するのである。
女の秘部がそれほど濡れていなければおぞましい効果は出ないが、感じて濡れていると芋茎特有の効果が女を責めることになる。この責めは女次第なのである。感じて濡れていれば己を責める責め具になるし、責められるということは感じて濡れていることを証明してしまうことになるのだ。証明することは女にとって耐え難い屈辱と羞恥をもたらす。だから女は芋茎の効果を証明してはならぬのだ。
ふふふ。。。
私は芋茎こけしを女の秘部にゆっくりと挿入すると、後は眺めているだけでよい。
女の理性が勝るのか、芋茎の効果を呼んでしまうのかは女次第ということになる。
しかし私は芋茎の効果が現れるようにして女の秘部に挿入するので、その効果からは逃れられないのだが、女には自分がその効果を生んでいると思わせているのである。それによって女の屈辱感と羞恥心は膨らむのである。そして精一杯芋茎の効果と闘ってくれる。その様子がなんとも私を喜ばせてくれるのである。
| 鬼縄のSM
| 05:35
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2009.05.28 Thu
女はよくいく演技をするという。セックスをして本当にいくのは少ないらしい。男に気を遣ってか、それとも早く男にいって貰って、つまらないセックスを終わらせたい為か。女がいかないと男は怒るらしいのである。機嫌を悪くさせるのもよくないので、とにかくいったふりをして男を満足というか、納得させるというのである。
私の意見であるが、普通のセックスをして女を逝かせることはまず出来ないと、男は思った方がいいのだが、男はそれでは満足しないものなのである。女にはいってもらわないと男は気が済まないものである。結局女は演技をすることになる。
私のSMはそれが演技であろうと本当であろうとどちらでも構わないのである。悶えてくれればいいのであるが、私には私なりの悶えさせ方がある。女に簡単には逝かせないのである。逝かなければ逝かないほど私は嬉しい。だって悶える時間が、それが演技であろうとも、長くなるからである。私は逝く寸前にやめる焦らし責めが大好きなのだ。好きだから何時までも繰り返す。時間は責めとなる。演技であっても多分苦しくなってくるだろう。そこに真実が見えてくると言うものだ。
ふふふふ。。。。
演技などしていられなくなるのである。そして最後には本当に逝かされてしまうのである。
| 鬼縄のSM
| 08:21
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2009.05.27 Wed
SM小説といっても私の描くものにSM的な肉体凌辱を期待されては困る。美女に対する心理的な拷問が主眼になる訳で、つまり、凌辱の対象に素直に従順になられては、小説を書く上で困るのである。人間の尊厳を守る為に徹底して抗戦し、遂に破れるという筋立てでないと私のSM小説は成功しない。これは突き詰めれば人間の本能に息づいているものではないかと思う。
団鬼六の言葉であるが、私が従順な奴隷Mを望まないのと同じである。実際のSMプレイは同意無しでは出来ないが、精神性においてこの情景や心理を理解出来ていないと、私の場合は興味を失うことになる。
その点、私が月1度呼び出す女は借金の為に嫌々私に責められに来る訳なので面白いのだ。そんな男の目の前で悶え狂わされるのだから、女にとってみればこれほど屈辱的で恥ずかしいことはないと言うことになる。それに彼女はとても負けず嫌いで、プライドの高い気の強い女なのだ。私の獲物としてはこれ以上のものはないのである。
指を恥部に入れてからどのくらいたったであろうか。女は恥ずかしいポーズをとったまま耐えている。ここで気を許して感じるそぶりをみせれば私の思うつぼだということを知っているので必死に耐えているのだ。
私は少しだけ中に入れた指を動かす。秘部に指を入れられているのだ。感じない訳がないのである。指を少し動かしたら止める。そして緩やかな時の流れを味わう。そしてしばらくしたら又指を少しだけ動かす。
ふふふふ。。。。
これを繰り返したらどうなると思うかね。貴女も実際に経験すれば分かることだよ。本人の意志とは裏腹に、秘部にいやらしい密を溜めることになる。本人にもそれが分かるだけに口惜しい思いに責められるのだ。
さて次はいやらしい芋茎こけしを使ってやろう。。。
| 鬼縄のSM
| 12:21
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2009.05.26 Tue
私の頭の中ではいつも女がいやらしく悶えさせられている情景で満ちている。
女がいやらしく悶えさせられるが私のキーワードなのである。縄も痒み薬も羽根や筆もペンライトや耳掻き、電マもその為の道具であり、縛りや責めが目的ではないのである。全ては女がいやらしく悶えさせられる為にあるのである。
私が借金の利子の為に月一度呼び出す女は悶えさせられることがとても嫌いな女である。性的なことには嫌悪さえ抱いているという堅物である。そういう女だからこそいやらしく責めて悶えさせることに意味があるのである。私はこの女に執念を燃やし、執着するのである。
さて、続きをしよう。。。
鏡の上の屈伸責めはいかがかな。そろそろ同じ事をパンティを脱いでしていただきましょうか。ブラジャーも忘れずに外すんですよ。
ふふふふ。。。。
貴女はいやらしい屈辱のストリップショーを電気がこうこうと照らされている明るい部屋の真ん中で、私のいやらしく光る目の前でしなければなりません。
そうだ舞台を作りましょうか。舞台を作った方がきっと貴女は恥ずかしいでしょうから。。
小さな小机を差し出した。もちろんその上には鏡を置くことを忘れてはいない。
素っ裸になったら最初に教えたように、足を広げて、手は頭の後で組んで、肘を上げ、脇の下が見えるようにして、鏡をまたぐのですよ。
そうそう。とても恥ずかしい格好ですね。借金の為とは言え、こんな恥ずかしい格好をさせられて口惜しくないですか?
そうだここで貴女の秘部の状態を検査してみましょう。指を入れてみたら濡れているかどうかすぐわかる。声を出したり、腰をくねらせたりすると感じていると思われますよ。こんな屈辱的な格好をさせられて感じるなんてプライドが高い貴女には耐えられないでしょう。だから指を入れられても反応しては駄目ですよ。ポーズも崩さないようにね。
ふふふふ。。。。
私は貴女のあそこにゆっくりと中指をいれていく。貴女の反応を見ながらいやらしくね。
しかし私は指を決して動かさない。そのままゆったりと時間だけが流れていくのです。
貴女は耐えられますかな?
| 鬼縄のSM
| 03:43
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2009.05.26 Tue
私はSM愛好家ではあるが縄師ではない。奴隷を育て上げる立派なご主人様でもない。多分SM妄想家なのであろうと思う。妄想を立派な文章に出来る「SM小説家」でももちろんない。しかし女をいやらしく悶えさせるSM的妄想で頭は常に一杯である。私のSM的妄想は「SM」ではないのかもしれない。SMではなく官能小説的SM、もしくはSM的官能小説的妄想なのかもしれない。私はSM的耽美主義者なのであろう。
私の妄想の出発点は団鬼六のSM小説である。その鬼六先生が、
『SMといっても私なんぞのやっているのは厳密な意味ではSMという種のものではないのかもしれない。SM的ムードを持った荒唐無稽な官能小説であって、自分のねちっこい助平さを売り物にしているようなもの。』
と言ってるように、私のSMもそれに近いのである。団鬼六の小説が出発点だから当然と言えば当然なのだけれど。
つまり私のSMは、SMの語源である「サディズム、マゾヒズム」とは異なるものである。マルキ・ド・サドやザッヘル・マゾッホとはその主義においても、情緒においてもまったく異なるものである。
しかし、余談ではあるが「SM」という言葉は、「サディズム、マゾヒズム」とは似て非なる団鬼六先生が命名されたという話は面白い。
さて、私はSM的官能小説的妄想を具現しようと日夜頑張っているのだがなかなか難しい。そもそもSM小説はその作者が言うように「荒唐無稽」なのだから、具現は不可能だという意見も多い。その意見に私はこう反論する。ディズニーランドでは限られた空間、時間において魔法の国を具現しているではないか。とね。私のSM妄想の実現は無理かもしれないが具現なら限られた空間、時間において可能なのである。そう、あの私の大好きな「痒み薬」だって具現できるのだよ。
ふふふふ。。。。。
頭の中の妄想は無限にいやらしいのである。
| 鬼縄のSM
| 02:55
| comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2009.05.16 Sat
ふふふふ。。。。
よく来たな。それでは始めようか。
まず服を脱いでいただこう。おっと隠れて脱ぐんじゃぁありませんよ。私の目の前で1枚ずつゆっくりと脱いでいただきましょうか。私はそれを楽しませていただきますよ。
私のSMプレイはこうして始まるのです。
パンティ1枚。ブラジャー1枚残ったところで、私は女の体を舐め回すようにゆっくりと、じっくりと鑑賞するのです。
その姿で足を広げていただきましょうか。手は頭の後で組んで下さい。肘を上げ、脇の下が見えるようにして下さいよ。まだ下着を着けているのだから恥ずかしいことはないでしょう。
ふふふふ。。。。
今から恥ずかしがっているようでは、同じ格好をこれから素っ裸でしていただくんですから、困るでしょう。
私は鏡を広げられた足の間に割り込ませるのである。
その鏡の上にしゃがみなさい。和式の便器の上にしゃがみ込むように、鏡の上にしゃがむのです。まだパンティもブラジャーも付けているのですから恥ずかしいことはないでしょう。さっきも言ったように貴女はこれを素っ裸の格好でするのですよ。今から恥ずかしがっていては、これからどうするのです。
ふふふふ。。。。。
さぁ、下着を脱ぐ前にいやらしい練習をしましょう。いきなり素っ裸では出来ないでしょうからね。鏡の上でしゃがんだり立ったりを繰り返すのですよ。練習が済んだらいよいよパンティとブラジャーを取っていただきましょうか。。
脱いだパンティは調べさせていただきますよ。いやらしいシミが付いていないかどうかをね。まさかこんないやらしいプレイに反応して恥ずかしいところを濡らしたりしていないでしょうね。そんなことになっていると、パンティを脱いで鏡の上に立つと、恥ずかしい雫が鏡に落ちて困ったことになりますよ。
貴女がこういうことで感じてくれて、雫を垂らすまで燃えてくれることは、私としてはとても嬉しいことだけれど、貴女にとってはこれ以上恥ずかしいことはないでしょうね。
私のSMは官能小説的なのです。言葉的。妄想的。体でより頭でするSMなのかもしれません。
私は一人の女をこれから責めようとしています。ネチネチと時間をかけてゆっくりといたぶろうと思っています。その女は私に莫大な借金をしてしまい、その返済が出来ずにその身を私に捧げなければならなくなったのです。仕方なしにその美しい体を私に差し出さなければならなくなったのです。そしてどんな恥ずかしい私の要求にも1ヶ月に1度、利子を支払う変わりに受け入れなくてはならないのです。女は思うでしょう。いっそセックスを要求してくれた方がどんなに楽なことか。ネチネチと体の隅々を舐め回すように見られ、そしてなぶられる。縄で縛られ女としてもっとも恥ずかしい格好をとらされゆっくりと虐め責められはずかしめられる。女は否応なしに悶えさせられてしまう。悶えることが女にとっては屈辱であり恥ずかしいことなのである。その姿を私に見られることが、女にとっては耐えられないことなのだ。
SMプレイにおいてこのような情景を作り出すことは可能なのか。答えは「イエス」
さぁ、淫靡なSMプレイを始めようではないか。
ふふふふ。。。。
| 鬼縄のSM
| 08:23
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2008.06.10 Tue
私が何の為にSMをしているかと言えば、女の悶える様を見たいからである。
苦痛を与える拷問シーンに惹かれるのも、実は苦痛に耐える女の反応が性的に感じている様と似ているからである。いやらしい性的情景になかなか接することが出来なかった幼年期に見たヒロインがワルモノに捕まって拷問を受けるドラマに興奮したのは、性的快楽に身悶えする女の代替えシーンだったのかもしれない。だから大人になっても苦痛を与える拷問シーンに惹かれるのであろう。
しかし私が求めているのは、苦痛に悶える女ではなく、性的快楽に悶える女の様である。但し正常なセックスなどで感じている女ではなく、無理矢理に感じさせられている情景でなければならないところが、私の異常なところである。
女は感じることに羞恥をし、逝くことを恥や屈辱だと思っており、女はどのような時でもそのようなはしたない醜態や痴態を晒してはならぬという封建的文化下の思想を持った女でなければならないという前提がある。そう言う女を無理矢理に感じさせ、悶えさせ、最後には逝かせて屈服させるという性的嗜好を私は持っているのである。嬉々諾々と縛られ、悶えてくれても駄目なのである。こういう矛盾を抱えているからこそ、現実ではない小説に惹かれるのであろう。
プライドと羞恥心が強い女が開脚に縛られ、痒み薬を塗られ、無理矢理に悶えさせられる、現実にはあり得ない情景に惹かれるのである。
最近夢中になっているプレイは電気あんまを使ってとことん焦らすプレイである。自ら逝かせて欲しいと哀願するまで感じさせては、逝きそうになると中断する責めである。哀願せねばいつまでも焦らすのである。焦らされるのは結構辛いものである。
私は苦痛を与えて責めるのではなく、快楽で責めるのである。
私の麻由美は嬉しいことにいつまでも哀願することなく、この責めに耐えてくれるのである。これほど逝かされることに抵抗する女も珍しい。フフフフ。。。。。
| 鬼縄のSM
| 09:47
| comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2008.05.04 Sun
あくまで鬼六のSMは、相手に肉体的な痛みを与えるよりも、辱めることに大きな喜びを見出すものである。青竹で叩くにしても、それはその行為自体に目的があるのではなく、あくまで精神的に追い詰める為の補助的手段に過ぎないのだ。その他の肉体的責めについても同様である。
つまり鬼六のSMは、責められる側が羞恥心を持っていることが前提条件となり、初めて成り立つのである。この点、サドとは全く異なる。サドの犠牲者はほとんどの場合生命を脅かされているので、恥ずかしがっている余裕などない。一方サドのリベルタンは、犠牲者を肉体的に苦しめ、痛めつけることには関心があるが、その羞恥心など、どうでもいいのだ。
捕らわれた女ヒロインが、身も世もあらず羞恥にのたうっているからこそ、悪漢達が大喜びするのだ。もし彼女が、平然と自分の性器の機能を自慢したり、縛られたのが嬉しくてニコニコしていたのでは、悪漢達の欲望も萎えてしまうに決まっている。
獣欲に満ちたような悪漢達だが、そのわりには、性交と射精は案外少なく、ほとんどの時間とエネルギーを、羞恥責めに費やしており、逆説的な禁欲主義者とも言えそうなのだ。つまり、いつまでも自分たちはセックスやそれに準ずる行為で満足することがないから、いつまでも執拗に、獲物をいたぶり続けられるのだ。
| 鬼縄のSM
| 04:56
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
≫ EDIT
2008.05.01 Thu
団鬼六小説のS達が全くもてないという訳ではない。多分に天の邪鬼で、自分に媚びを売るような女には興味が持てず、そのような女ととのセックスでは不満なのである。
せっかく誘拐した女が抵抗しなくなると、妥協した性行為というのを色気の乏しいものに感じてしまうのである。
結局、鬼六の小説のワル共が言うように、「女の嫌がることを無理矢理させるのが、わいらの趣味や」なのである。こうなると、もうもてるもてないの話ではない。相手の気持ちなどどうでもいいどころか、嫌われるのを覚悟で、己の妄想なり快楽を追求しようとするのである。更に鬼六の悪漢達は、「高嶺の花」を狙う「身の程知らず」なのであるが、そのような女達に自分が本気で愛されるとは期待もせず、いや、もし本気で愛されたなら困惑してしまうのであり、その意味では身の程をわきまえているのである。
ともかく正攻法で相手にしてもらえないならば、奥の手、裏技を使うしかない。そこで鬼六小説のサディストは、様々な手段を用いる。親から譲り受けた店を守ろうと借金地獄に陥る女将や、没落した名門夫人や令嬢には財力をちらつかせるし、女性教師、社長夫人にはスキャンダルを仄めかして脅しをかける。武家の奥様や女博徒には、義理人情がらみの事態によって巧みにおびき出し、生け捕ってしまう。
自分の嗜好の為なら、鬼六のS達はどんな卑劣な手段もいとわない。いやむしろ、卑劣な手段にこそ美学を感じてしまうのである。その意味では被虐的でさえある。自分を貶めることに美学を感じるなどSではなく、むしろMと言っていいぐらいである。しかし求める獲物は、より美しく手に入りにくい上物に挑戦することに生き甲斐を見いだすのだ。断れれば断れるほど、嫌がられれば嫌がられるほど、彼らは興奮し喜ぶのである。まさにストーカー。。始末に悪い。
私のようなこの手のSは、自分にかしずく従順なMではなく、どちらかというと攻撃的なS的な女性に惹かれてしまうのである。その意味でもMと大差ない。そのような女はMにはなってくれず、仮に従順なMになってくれれば興味を無くしてしまうのであろう。
つまりはMを求めているのに、Mを求めていないという大矛盾の中に身を置いているのである。そして、その大矛盾を自ら創出しておいて、それがかなえられないとなると、女を恨んで淫靡な方法で復讐する物語に酔うのである。
| 鬼縄のSM
| 07:56
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
≪ PREV | PAGE-SELECT | NEXT ≫