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2009.10.31 Sat
ブログの記事を書くことがなかなか難しい。そもそもブログは日記だからその日の出来事や、おいしかった(まずかった)食事のこと、目にした風景を写真に撮ったりして書けばいいと言われるが、私にはそれが出来ない。なぜならそう言う日常的なことを書くと「鬼縄」から離れてしまうし、そういう日常的なところから素性がばれるのではないかという怖れを抱いているからでもある。私は結構、いや相当用心深いのである。それにそもそも46歳の男の日常なんぞおもしろくもなんともない。私の食べた料理などどーでもいいと思われるのが関の山であろうと思われるからである。私も他の男の日常なんぞに全く興味がないですからね。
しかしこれが女性のブログ、しかも関心のある女性のブログとなると話は違ってくる。
その女性の日常や食べたもの、出遭った風景の感想などはまさに興味の的となるのである。だから私も同じように私の日常を書けばいいかというと、多分私の日常には誰も関心は抱かないと思うので、やはりそういうことは書けないのである。
そして興味を持った女性のブログを読んでいて彼女の恋人とか夫の「男の話」が出てくると、なぜかその女性への興味をなくしたりしてしまう。私はその女性とは全く縁もゆかりもないのに、ただブログを読んでいるだけなのに嫉妬したりするのである。変な話であり、私は変な男なのであろうと自分でも思う。思うが、そうなのである。
| 鬼縄のつぶやき
| 17:08
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2009.10.30 Fri
女を貶めないと不能になる男は、女の側から言えば、彼にセックスを求められたと言うことは自分が軽く見られていると言うことであり、彼の求めに応じてセックスを許せば、ますます自分を「下賤な女」として軽く見るようになるので、彼と性関係を持つ訳にはゆかないであろう。
その内彼が態度を改めてくれるかもしれないと期待し、一時の我慢だと思って彼を受け入れたりすると、ますますひどいことになる。
彼に軽く見られまいとして、彼とのセックスを拒否すれば、彼は自分に敬意を払ってくれ、自分を愛してくれるかもしれないが、彼の「愛」は現実の自分を通り越してどこかに彼が描いているある架空のイメージに向けられ、現実の自分は置いてきぼりにされるので、彼と現実的なレベルでの人間関係を持つことは出来ない。
愛と性が切り離されると、性が歪むだけでなく、愛も歪み、むなしく空回りする。しかし、愛と性を無理矢理観念的に一致させたところで問題が解決する訳でもない。この辺りは難しいところである。
結局、女を貶めないと不能になる男からは、女は逃げ出すしか方法はないのかもしれない。
しかし、SMを上手く利用すれば解決できるかもしれない。
| 性的SM論
| 18:06
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2009.10.24 Sat
自転車は道交法上紛れもなく車両である。しかし自転車から降りて、自転車を牽いている場合は車両ではなく歩行者とされる。これはバイクなどもエンジンを切って、バイクから降りて牽いている場合も同様である。
さて、自転車が横断歩道などで渡ろうとして待っている場合、自転車から降りて待っている場合と、自転車にまたがったまま待っている場合では、その対応に差を付けるべきであろうか。
つまり歩行者なら横断に優先権があるので、自動車はそれを妨げてはならず横断歩道の前で停止しなければならないが、車両なら横断歩道を渡る優先権は自転車側にないことになり、自転車が優先道路側を走行していない限り、自転車の横断を優先させるために自動車は停止しなくても良いと言うことになる。
バイクならエンジンを切るという明確な差があるが、自転車はどの時点から車両になり、どの時点から歩行者に戻るのであろうか。
こういうことを悩むのは私だけであろうかね。。
結構私は自動車を運転しながら、自転車が待っている横断歩道の手前で悩んだりしてしまうのである。
あぶねーな!!
| 鬼縄のつぶやき
| 10:23
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2009.10.24 Sat
ブログ拍手のコメント欄からご意見を頂いておりますが、非公開ということもあって個別にはお返事はいたしませんがご意見は確かに拝読させていただいております。
意見の交換を希望されているのなら通常のコメント欄から投稿されると思うので、あえてコメントに対してお返事をお返しいたしません。。
どのような形にせよ、私のブログに反応して下さる方は少ないので嬉しいです。
| 運営日記(新着情報)
| 09:57
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2009.10.15 Thu
仏ミシュランが発行する、世界的に影響力のあるレストラン格付け本の関西版
『ミシュランガイド京都・大阪2010』がいよいよ16日に発売!
発売前日のきょう15日には、同社キャラクターのミシュランマンが関西空港で
ガイドブックのPRを行うなど、東京版の初版発売時(2007年)に勝るとも劣ら
ない盛り上がりを見せています。
いっぽう、京都・大阪の老舗や、地域住民からは“上から目線”の格付けに反
発の声も。ミシュランガイド総責任者ジャン氏の「格付けが嫌なら転業したら」
という発言に不快感を示す店主や、関西名物のお好み焼きやたこ焼きが星を逃
したことに「なんでやねん」と憤ってしまう粉モノファンも多いようです。
ミシュランガイドを読んで日本の料亭やレストランに行く日本人は売国奴と言えよう。。なんで日本の食文化をフランス野蛮国のタイヤ会社が発行する陳腐なガイドブックに評価されねばならんのだ?それをまたありがたって掲載を許す料亭やレストランにも問題はあるが、それを読んでのこのこ店に行く日本人もみっともない。そもそも味の評価はは他人に任せるのではなく、己で判断するものである。あなたが食べる料理はあなたの胃袋に入るのですよ。他人の評価に任せてどうするのと言いたいですね。まぁ百歩譲ってガイドブックに頼らなければならない味音痴は、それでも日本のガイドブックを利用するべきでしょうな。
たまたまミシュランガイドに掲載されているレストランで食事をしていたら、ミシュランガイドを読んでこの店に来ましたと言う客が隣のテーブルに座ったが、私は味音痴なので何を出されても結構です。と、言っているようなものだということがこの客には分からないのだろうね。
ミシュランガイドに掲載されたから来た言うのではなく、私の味覚に合うかどうかを確かめに来たと言うべきでしょうね。三つ星か星無しかは自分が決めることです。ミシュランガイドの調査員がいいと言っても、私がいいとは限らない。私がいいと言ってもあなたがいいと思うかは分からない。でしょう?
因みにこのレストランは、私にはまずくはないがと言う程度です。その割に値段が高かった。味は主観ですが料金は客観です。費用対効果も勘案すべきでしょうな。
ミシュランガイドブックが味の権威とは思わないのですよ。
| 鬼縄のつぶやき
| 20:05
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2009.10.14 Wed
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| 運営日記(新着情報)
| 20:17
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2009.10.04 Sun
昨日は「中秋の名月」でした。でも天文学的には、本当の満月は今日のようです。昨日見忘れた方は今日でも間に合いますよ。歳事と実際はだいたいずれが生じるものです。
ずれが生じると言えば、「中秋の名月」はその年によって9月だったり、10月だったりします。月の満ち欠けですから年によって違うのは当然かもしれませんが、もともと旧暦では「中秋の名月」は、8月15日と決まっていたのです。
日本の文化は、現代の暦以前の「旧暦」の下で形成されてきた部分がまだ圧倒的に多い。それを新暦(現歴)にて行うのであるから、これもまたずれがどうしても生じてしまいます。我々日本人は、太陽より月の方が身近に感じていたのでしょう。だから太陽暦である新暦と日本古来の文化との間にはどうしてもずれが生じてしまうのです。
私は歳事などの文化の強い行事は「旧暦」で行うのがいいと思っています。そうしないと過去の文化的遺産の意味が伝わらなくなってしまうと考えるからです。
例えば「正月」をなんで新春というか。とか昨日の満月をなんで「中秋の名月」と言うかなどです。
一年には「春夏秋冬」の四季があります。旧暦では三ヶ月毎に季節が変わり、
「一・二・三月」は春、「四・五・六月」は夏、
「七・八・九月」は秋、「十・十一・十二月」は冬
と分けられます。そしてそれぞれの季節に属する月には
初・中・晩 あるいは、孟・仲・季
の文字をつけて季節をさらに細分するのに使いました。たとえば旧暦四月は「初夏」あるいは「孟夏」となります(孟・仲・季の文字は中国では兄弟の年の順を表す場合に用いられ、孟は年長者、仲は真ん中、季は末っ子を表します)。
ですから、この季節の細分によれば、「八月」は秋の真ん中で「中秋」あるいは「仲秋」となります。
ただし、立春・立夏・立秋・立冬の様に直接季節と結びついているものは、旧暦より新暦の方がずれは少ないようです。
なお、来年の旧暦正月元旦は、新暦では2010年02月14日です。こちらのほうが「新春」にふさわしいように私は思いますけどね。
| 鬼縄のつぶやき
| 10:33
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2009.10.02 Fri
女を貶めないと不能になる男がいる。
ある意味私もそうである。
その昔、ほとんどタダみたいな安い給金で雇った「下女」をいくら粗末に扱っても良かった時代、次から次へともっぱら下女ばかり手を付ける男がいたし、現在でも、売春婦以外の女に対しては不能で、売春婦しか相手に出来ない男がいるが、彼はこの種の男であろう。
彼が売春婦に払うお金は女を穢す罪を償うためという意味を持っているのであろうか。
性交の前に相手の女を鞭打ったり、殴ったり、侮辱したりするサディストも、この種の男であろう。鞭打ちや殴打や侮辱は女を「穢していい下賤な女」に貶めるために必要であって、そうしないと彼は不能なのである。
主従のSMの場合、確かに女を階級的に奴隷の位置に落とすのであるから、間違いなく貶めている。私のような上位にいる女を責めによって貶める妄想というのも、上位にいられたのでは手も足も出ないので、卑怯な手でもなんでもいいから責めによって貶めることによって、はじめて性の対象と出来る女にする事が出来るという意味ではこの種の男と同じであろう。
ただしSMの場合は、擬似的に女を「穢していい下賤な女」に貶めるのであって、それも同意を得て、更に自分の力で貶めるのであって、最初から自分より「下賤」な女を相手にする訳ではない。
同等に扱うには疑問と抵抗もあるが、強姦するという形でしか性交できない男も同類かもしれない。
彼は、不能であり続けるか、女を穢し、侮辱して「もの」に貶める形で性交するかの二者択一に追い詰められているのである。
彼は、どう扱っても言い「下賤な女」と見なしていた相手が、性交の途中、何かのことで毅然とした態度を取ったり、支配的に振る舞ったりすると、言い換えれば、自分の意志を持つ存在であることを示すと、とたんにペニスが萎え、不能になる危険が増大するのである。
女としてはこの種の男と付き合うのはきっと大変なことであろうと思われる。
| 性的SM論
| 20:26
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2009.10.01 Thu
ある種の男は、母親に対するように敬意を払わなければならない女、何らかの点で自分より上位にある女に対してしばしば不能であるし、愛を感じた女とは性交する気になれなかったりするらしい。多分、性交すれば、相手の女を穢すような気がするのだろう。それは根拠のない不安ではなく、まさに彼の性欲は愛から切り離されていて、女を単なる性的道具として扱うものであるから、彼は性交すれば実際に相手の女を穢し、人格的に侮辱することになってしまうのである。従って、彼は穢してもいいと思える目下の女、下賤な女しか性的には相手に出来ないのである。
それ以外の女に対して彼が不能なのは、身体的、生理的原因によるのでは全然なく、気が弱いからでもなく、彼にとっては、実は人間として当然のことなのである。彼には、愛する女を穢したり、傷つけたくないという良心のかけらが残っているからである。彼のような男は、穢してはならない女、穢してもいい女というように、女を二極の階級に別けるのである。
| 性的SM論
| 20:56
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