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2009.09.29 Tue
団鬼六のSMは、『女』を手に入れたいから悪事を行う。
それに比べてヨーロッパ的SMは、『権威』や『権力』があるから『女』を手に入れる。ヨーロッパ的SMの前には女は主軸ではなく、権力を引き立たせる道具の一つでしかない。主従のSMとは権力への憧憬を示し、鬼六のSMとは女への憧憬を示すのでは無かろうか、、。鬼六の小説では間違いなく女が手に入れる価値のある最上位に位置しているのである。
私のSMも求める価値の最上位はもちろん「女」そのものである。『女』を手に入れたいからSMをするのだ。そして最高の女を手に入れた。主従という
関係性を求めるために「奴隷」を求めたのではない。
結果として「
関係」は構築されるのであって、手段や目的ではないと思っている。「
関係」を手段や目的とすると「女」は道具化する怖れがある。
私の性的嗜好である「SM」を受け入れてくれた結果として、「
愛」と「
信頼」が得られたのだ。
| 鬼縄のつぶやき
| 22:35
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2009.09.27 Sun
SMプレイにおける男性Sは、普通のセックスに飽きたか、正常な性交では、己へのコンプレックスからか、相手を充分に満足させられないとの強迫観念を持っているか、倒錯趣味によってしか性欲が沸かないか、それとも女性Mを悦ばす為の奉仕役になるかのいずれかの動機を持っていると思われる。逆に言えば、やたら精力旺盛で、射精を繰り返すことにしか関心のない動物的な男性は、想像力を用いたSMを楽しむ余裕に欠けるきらいがある。
団鬼六官能小説では、男性・女性を問わず、復讐心によるサディスティックな行為が描かれることが多い。
中には、社会階級の下のものが上のものをいたぶるという、性倒錯に社会的逆転が加わった「階級闘争」の様相を帯び、財産を全て奪われ、凌辱されたあげく、絞首刑に処せられるという、まるで社会主義革命のパロディのような作品もある。
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鬼六の小説は、普通なら手に入れられない女をアクドイ手段か金の力で無理やり手に入れるという、男性には夢のような暖かい話でもあって、小説に登場するサディスティック男性は成り上がりか悪党が多い。
小説の発想も前述のように逆転劇に近いような気がする。だから、うだつの上がらない男の救済もしくはウサを晴らすための意味合いも多い気がするのである。
ですから西欧サディストの絶対的権力者が嗜む、貴族社会の快楽追求とは少々趣が異なるかなと思うのです。それらは神に選ばれし血族が誇るものであり、逆転劇ではないですから。
ですから、我々鬼六の小説ファンは日常では女性にコンプレックスがある男が多く、また、優しい男が多いのではないかと思うのです。
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| 鬼縄のつぶやき
| 17:33
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2009.09.23 Wed
巷では「セクハラ」と非難されるのを恐れて、性的なるものに神経過敏な人々が増えているように思われるし、「ジェンダー・フリー」や「フェミニズム」など、これまでの性のあり方に疑問が投げかけられる時代になった。だからこそ、団鬼六の男性原理だけで成り立っている、荒唐無稽の超セクハラ作品に、溜飲を下げる者がいても不思議ではない。
鬼六は、「快楽を求めること、これが本当の成熟だと思うんですよ。未成熟の人間は幸せを求めます」と、説明する。そう言えば「幸せな家庭生活」とは言うが、「家庭生活の快楽」とは言わない。「幸福」とは、フツウの人々若しくは小市民が願うもの、と鬼六先生は捉えているのかもしれない。「平凡な幸せ」という言い方がそれを象徴している。
鬼六に限らず、幸福より快楽を追求するのは、むしろリベルタンやダンディを気取る人々の、いわば伝統的なライフスタイル若しくはポーズだ。例えば19世紀末英国で、同性愛スキャンダルが元で2年の懲役に服さなければならなかった作家・オスカー・ワイルドについて、アンドレ・ジイドは「彼は、人が義務に赴くごとく快楽に行った」と記している。そうなのだ、彼らにとって「快楽」は、「義務」であり、また自己のアイデンティティを確立するために、そして道徳や制度に厳格な小市民との差別化を図るためにも、必要不可欠なのだ。
文化は常に、いかがわしさをも内包する。
ワイルドは作品の中でも「快楽」にこだわる有産階級のダンディ達を描く。彼らの台詞を、いくつかご紹介しよう。
「教養のある者は、快楽を悔いることはないし、教養のない者は、快楽が何であるかを、全く知らない」
「快楽は唯一の生き甲斐だ。幸福ほど人を老けさせるものはない」
「今日では、人を慰めるのは後悔ではなく快楽である」
「単純な快楽は、複雑な人々の最後の逃げ場である」
「タバコは、快楽の完全な型である」
健康という幸福な状態を維持するために、禁煙や節煙したのでは、「快楽」提唱者としては失格という訳なのであろう。
| 鬼縄のつぶやき
| 18:39
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2009.09.21 Mon
瞬間、僕は自分の目を疑った。
今、僕の目の前に繰り広げられているのは、現実なのか夢なのか、或いは映画か写真のワンショットなのか、さもなくば一枚の絵なのか。
石の壁で区切られた窓の彼方に、まばゆいばかりの光に照らし出された部屋が見え、そこに女性が一人、全裸のまま立っている。それも両手両肢を大の字に開かれ、腹部から股間をいくらか突き出された格好で。よく見ると、女の両手首は天井から下がっている鎖に繋がれ、両肢は床に打ち込まれている鉄環で止められている。
それはあまりに無残な女の姿に怖れを成したと言うより、それがこの世のものとは思えない、決してみてはならぬと言われた秘密絵をかいま見たような興奮を覚えた。
確かに僕が今見ているのは絵でも映像でもなく、現実そのものである。その証拠に、女は両手を天井から吊られたまま、うなだれた首と腰の辺りがかすかに揺れている。
奇妙なことに、僕はその時になっても、目の前の女が、僕が差し出した女だとは思っていなかった。それというのも、女は確かに一糸もまとっていないが、目だけが白い布で隠されている。
あらためて顔を窓に押し付けて覗くと、女はややほっそりとして、背もさほど高くはない。思い切り両手を上に伸ばされているので、脇の窪みが異常にへこみ、そこから胸元へ柔らかなふくらみが見えるが、ウエストは削がれたように細く、黒い翳りの見える下腹はひっそりとして頼りない。むろん少女ではないが、どこか成熟しきっていないというか、気品がある。女の肌は白と言うより、むしろ蒼ざめてさえ見える。何か裸体と言うより、月の光にされされている宝石のように。
あの高慢な気位と自尊心の高い女が、今は煌々たる灯りの中で、全身をさらけ出して立っている。まさしく、あの目隠しの下の小生意気にとがった鼻も、薄いが愛らしい唇も、すべてあの女のものである。今や隠しおおせるものは何もない。スレンダーな身体にしてはやや豊満な乳房も、両手で包み込めそうなウエストも、まろやかだが少年のように削げたお尻も、淡い翳りをもつ下腹も、思い切り開かれて小刻みに震えている内股まで、僕の眼と好奇心に満ち溢れた数人の男の眼からも逃れ用はなかった。
自分の女を好奇の眼の男の前に差し出すというのはこういう事か。
| 鬼縄のSM
| 20:54
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2009.09.19 Sat
ある種の男が愛と性を切り離そうとするのも不能対策の一つではないかと考えられている。D・ディナースタイン(『性幻想と不安』)によると、男が愛と性を切り離し、愛していない女とでも、いやむしろ愛していない女とこそ性交したがるのは、母親に育てられ、母親との情緒的しがらみから十分に解放されていないからである。すなわち、男の子は、幼い頃、母親に支配され、情緒的に絡め取られ、性的に刺激され、母親との関係において、愛され保護される幸福と同時に支配され束縛される屈辱と息苦しさを味わっていた。男の子が男になり、性能力を獲得するためには、幼児性欲すなわち前性器性欲から性器性欲へと移行し、母親から解放され、精神的にも性的にも独立しなければならない。性器性欲という新しい形の性欲は、母親からの独立の足場であり、この足場はそれまでの母親との湿っぽい情緒の絡んだ不能と屈辱の関係に浸食されてはならない。これが、愛と言えば、支配され保護される形の愛しか知らず、そこから逃れて独立しようとあがく男が新しく現れた、母親以外の女に大して取りがちな態度の一つである。
彼は、相手の女を単なる性的道具として扱い、敢えて性交を性欲を処理するために必要な生理現象と見なし、機械的、事務的、即物的に性交しようとする。このような性交は、女にとってあからさまに屈辱的であるだけでなく、男にとってもはなはだ貧困な味気ないものとならざるを得ないが、それでも彼は、愛の絡んだ性交をして相手の女に情緒的に巻き込まれ、呑み込まれる恐怖に耐えられないのである。彼は、次から次へと女を漁るかもしれないが、そうするのは、数多くの女を征服して自慢の種にするためでもあるけれど、もう一つの理由は、一人の女との関係を長く続けると、その内情に流され、とっつかまってしまうのではないかと恐れるからである。
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この種の男は、母親に対するように敬意を払わなければならない女、何らかの点で自分より上位にある女に対してしばしば不能であるし、愛を感じた女とは性交する気になれなかったりする。性交すれば、相手の女を穢すような気がして不安なのである。それは根拠のない不安ではなく、まさに彼の性欲は愛から切り離されていて、女を単なる性的道具として扱うものであるから、彼は性交すれば実際に相手の女を穢し、人格的に侮辱することになるのである。
従って、彼は穢してもいいと思える目下の女、下賤な女しか相手に出来ない。それ以外の女に対して彼が不能なのは、身体的、生理的原因によるのでは全然なく、気が弱いからでもなく、人間として当然のことなのである。なぜなら彼にもまだ、人を傷つけたくないという良心のかけらが残っているからである。
ここまで本質的ではなくても、男には多かれ少なかれ、彼のような部分を持ち合わせていることは事実であろう。女性からは全く理解されない、異性の親に育てられた男の闇の部分かもしれない。母親から独立出来ない男ほどこの傾向が見られる。
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| 性的SM論
| 19:57
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2009.09.15 Tue
サディズムをカトリシズムの私生児として位置づけたのは、19世紀末のフランスのデカダン小説家ユイスマンスと言われている。
マルキ・ド・サドの生きたフランスは、既に啓蒙主義の洗礼を受けていたし、貴族の次男、三男が軍隊に入る代わりに聖職者になったにもかかわらず、娼館に通うなど自堕落な生活を送ったり、一部の修道院が性的にスキャンダラスであったことが知られていた。だからこそ保守的なキリスト教徒は、より厳格なモラルを求める。
時代は折しも「フランス革命」という、反体制派の政治活動家達が結集し成功を収める大イベントを迎えた訳だが、サドの場合は、宗教的反体制分子であったのだ。
サドを鞭を振り回すだけの変態作家というイメージだけを抱いていたのでは、何故19世紀末に再評価され始め、今日に至るまでサド研究が続けられているのか、到底理解できるところではない。SM小説を期待して読み始めた私など、猥褻な場面が意外に少なく、反神・自然絶対主義的論説の長さ、犯罪的遊蕩を正当化させる論説にうんざりしてしまったほどである。
サドは「リベルタン」と呼ばれる。「リベルタン」とは「自由思想家」「遊蕩者」「不信心者」、ときには「無神論者」と訳されるが、サドの場合は、どうやら「無神」ということにはならないだろうと思う。
サドの多くの物語の根底にあるのはアンチ・カトリシズムであり、「涜神」による人間解放の思想と言われている。あくまでもカトリシズムの存在を前提とし、「神」の存在に拘っている。だからこそ、わざわざ復活祭の日曜日に遊蕩したり、十字架や聖書を踏みつけたり、聖体のパンを精液で汚したりといった行為に意義が生じるのである。このような黒ミサ的儀式は、カトリックにおけるミサの秘蹟を無視しては成り立ち得ないのである。
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さて、私のSMもマルキ・ド・サドほどの反体制派ではないのだが、性的嗜好という本質面だけではなく、美しいもの、正しいもの、権威あるもの、一般的なもの(常識)、普遍的と思われているもの等への反逆という側面ももっている。繰り返し言うが、私のSMはあくまで性的嗜好である。性的嗜好ではあるが、側面的というかそのおまけというか、付録的に一般的なものへの抵抗というか、大げさに言えば反逆的な要素も含んでいるのである。
しかしながら、美しいもの、正しいもの、権威あるもの、一般的なもの(常識)、普遍的と思われているもの等を否定している訳ではない。むしろこれらのものを否定したら私のSMは成り立たない。これが私の永遠のパラドックスなのであるが、サドのそれと似ているところがあると思っている。
アンチテーゼが成立するのもテーゼがあってこそという訳である。
ここを否定されると、多分鬼縄という私の存在意義も見いだせなくなるのかもしれない。私にとってはどちらも必要なのだ。光がなければ陰も存在し得ない。と言うところであろうか。。。
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| 性的SM論
| 16:28
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2009.09.13 Sun
私の女はとても気が強く、とてもプライドが高く、そしてとても羞恥心が強い。つまり従属的(奴隷的)Mではもちろんない。しかも忍耐強くて我慢強い。まさに私の理想とする女なのであるが、それ故にSMプレイを受け入れない。
尋常なことでは受け入れないので、私は卑怯な手段を用いて彼女をSMプレイに引き込むのだ。彼女はいやいや、仕方なく私のSMプレイに応じねばならなくなる。
まさに団鬼六の小説を地でいく行為である。ふふふ。。。。
さて今回は・・・・・・
「女体拷問研究所 Vol.12」のストーリーを使いましょう。
拉致監禁された彼女は、私の目の前でのストリップショーを強要されることになる。断れば彼女が経営する会社は私の手に落ちると言う設定だ。
「さぁ、この明るい部屋で、私の目の前で服を1枚づつゆっくり脱いでいただこうか」
「全裸になったら、鏡の上にしゃがんで、恥ずかしい秘部を写していただくよ」
「手は頭の後ろで組んで下さいな」
「さぁ、次は私の目の前で自慰をしていただくよ」
「指でするかね?それとも電マを使うかね?それとも貴女の嫌いな芋茎こけしでやっていただこうか」
「もちろん逝くまでやるんですよ。逝ったふりをしても私には分かるからね。ダメですよ」
いかがでしょうか。。
この後は「忍者ごっこ」で彼女を更にはずかしめてやることにする。
| 鬼縄のSM
| 09:27
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2009.09.13 Sun
姫川は生きていた?!戦う事を宿命づけられた”姫川”の謎がここに明らかとなる…!辻丸所長の爆死により、もはや壊滅状態の女体拷問研究所。”姫川亜由美”は、そんな研究所の残党を捕らえ完全に息の根を止めるべく奔走していた。亜由美は相棒のLadySWAT”竹下なな”とともに、残党が潜むアジトへと潜入する…。しかし、したたかな研究所員達を捕らえる事は、屈強な女ソルジャーをもってしても容易な事ではなかった。プライドと意地をかけた戦いは激化していく…。そして、ついに…二人は捕われの身となってしまう…。そんな二人の前に現れた、思いもかけない人物とは…!大事な相棒、そして出生の秘密までもを盾に取られた姫川に、もはやなす術など残されていなかった…。そんな姫川に、最後のチャンスが与えられる…。チャンスとは名ばかりの、あまりに屈辱的な罰ゲームが始まってしまう…!耐え難い恥辱に自らのプライドをズタズタにされながらも、懸命に理性を保とうとする姫川…。しかし、強烈なる極淫媚薬が全身に染み渡りはじめると、自らの意思とは裏腹に全身で快楽を貪りはじめる…!理性を凌駕するほどの女の本性…女は屈辱と快楽の狭間に堕ちてしまうのか…。一方、屈強な女ソルジャーを待ち受けていたものは、あまりに壮絶なる快楽拷問だった!剃毛からの媚薬注入…完全に理性を奪われてしまう。ガッチリ拘束された状態では抵抗すら出来ない…卑劣なる研究所員達にされるがまま!ネットリとした焦らし快楽責めから一転、見た事も無い程の超極太ドリル責め!!もちろん、穴という穴が凌辱されていく…。そして、ついには…研究所員の拳が女の奥底へと突き入れられていく…!!女達のプライドは、絶叫とともに深い闇へと呑み込まれてしまうのか…
女体拷問研究所 Vol.12を見に行く
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この動画のお気に入りは前半部分。
姫川捜査官が捕まり、一緒に潜入した同僚捜査官を助けるために行う恥辱のゲームシーンである。
まずは敵の男達の満座の中で行うストリップショー。そして卑猥な下着を着ける事を強要され、恥ずかしいポーズを自ら取ることを強要され、更にオナニーショーを演じる事を強要される。
この屈辱に満ちた凌辱はまさに私好みである。バイブをつっこんでかき回すシーンよりよっぽど魅力的である。
姫川捜査官はこの後、拷問台に大の字に縛られ、快楽責めに合うのだが、最後まで逝かなければ仲間と共に助けてやるという悪漢どもの常套口約。姫川捜査官はこのいやらしいゲームに応じて、絶頂の波が彼女を責めるのを必死で耐えようとするのである。
当然この動画の情景は私の女に具現して貰うことになるのだ。
ふふふふ。。。。。
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| 動画
| 08:17
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2009.09.10 Thu
私のSMは大体いつも同じ事をする。筆責め。羽根責め。芋茎こけし責め。焦らし責め。快楽責め。などである。飽きないと言えば飽きないし、懲りないと言えば懲りないのであるが、次回はバリエーションを加えてコスプレなんぞしてみようと思う。
私の女はMと言っても気が強いし、羞恥心が強い。女忍者とか女剣士が捕まっていやらしい責めを受けるというシュチエーションなどが似合うと思うがどうだろうか。コスチュームを着る事によって、その状況に入りやすくなるかもしれない。
「敵に捕まって、こんな辱めを受けるなんて口惜しくないかね。。ふふふふ。。。。」
どっちのコスチュームがいいか目下思案中。。
えっ?勝手にやってくれって?
| 鬼縄のSM
| 21:28
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2009.09.09 Wed
私は自分の女が結婚しているか、独身なのかはさほど問題にしない。
結婚している女でも、私が必要とされ、「私の女」として実感できる女であれば、私はその女を愛し大事にするであろう。
しかし例え独身であっても、私をないがしろにし、私に軸足を置かず、重心を他の男に移せばそれはもう「私の女」ではないのだ。その時、私は不要な男となる。
「結婚」は単なる制度であって、SMや愛を測るものさしにはなり得ないのだ。愛するから結婚する。結婚しているから愛がある。などという理想は理解するが、それを信用するほど甘い男ではない。
だから結婚していることが私のSMの障害にはならない。ものさしとなるのは制度ではなく、その心なのである。
SMは非日常の行為である。日常からは私のSMは生まれない。結婚はかえって邪魔な物である。だから私は結婚をしない。SMを生涯のものさしにしているのである。
| 鬼縄のつぶやき
| 21:08
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