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愛の支配から独立するための男の性交

ある種の男が愛と性を切り離そうとするのも不能対策の一つではないかと考えられている。D・ディナースタイン(『性幻想と不安』)によると、男が愛と性を切り離し、愛していない女とでも、いやむしろ愛していない女とこそ性交したがるのは、母親に育てられ、母親との情緒的しがらみから十分に解放されていないからである。すなわち、男の子は、幼い頃、母親に支配され、情緒的に絡め取られ、性的に刺激され、母親との関係において、愛され保護される幸福と同時に支配され束縛される屈辱と息苦しさを味わっていた。男の子が男になり、性能力を獲得するためには、幼児性欲すなわち前性器性欲から性器性欲へと移行し、母親から解放され、精神的にも性的にも独立しなければならない。性器性欲という新しい形の性欲は、母親からの独立の足場であり、この足場はそれまでの母親との湿っぽい情緒の絡んだ不能と屈辱の関係に浸食されてはならない。これが、愛と言えば、支配され保護される形の愛しか知らず、そこから逃れて独立しようとあがく男が新しく現れた、母親以外の女に大して取りがちな態度の一つである。

彼は、相手の女を単なる性的道具として扱い、敢えて性交を性欲を処理するために必要な生理現象と見なし、機械的、事務的、即物的に性交しようとする。このような性交は、女にとってあからさまに屈辱的であるだけでなく、男にとってもはなはだ貧困な味気ないものとならざるを得ないが、それでも彼は、愛の絡んだ性交をして相手の女に情緒的に巻き込まれ、呑み込まれる恐怖に耐えられないのである。彼は、次から次へと女を漁るかもしれないが、そうするのは、数多くの女を征服して自慢の種にするためでもあるけれど、もう一つの理由は、一人の女との関係を長く続けると、その内情に流され、とっつかまってしまうのではないかと恐れるからである。






この種の男は、母親に対するように敬意を払わなければならない女、何らかの点で自分より上位にある女に対してしばしば不能であるし、愛を感じた女とは性交する気になれなかったりする。性交すれば、相手の女を穢すような気がして不安なのである。それは根拠のない不安ではなく、まさに彼の性欲は愛から切り離されていて、女を単なる性的道具として扱うものであるから、彼は性交すれば実際に相手の女を穢し、人格的に侮辱することになるのである。
従って、彼は穢してもいいと思える目下の女、下賤な女しか相手に出来ない。それ以外の女に対して彼が不能なのは、身体的、生理的原因によるのでは全然なく、気が弱いからでもなく、人間として当然のことなのである。なぜなら彼にもまだ、人を傷つけたくないという良心のかけらが残っているからである。

ここまで本質的ではなくても、男には多かれ少なかれ、彼のような部分を持ち合わせていることは事実であろう。女性からは全く理解されない、異性の親に育てられた男の闇の部分かもしれない。母親から独立出来ない男ほどこの傾向が見られる。
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