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鬼縄のSM blog(FC2改)

鬼縄のSMブログです。淫靡な妄想の世界を彷徨っています。

2009年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年07月

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いやらしいプラトニックラブ

私は、私の女とセックスをしない。それは女が結婚相手以外とはセックスをしたくないという思想を持っているからでもあるし、私がセックスに重大な関心や意味を感じていないと言うこともあるが、それよりも私の妄想の具現ということに最も私の本質を見出しているからである。セックスは私にとって本質的ではないのだ。
もちろん私は不能ではないし、セックスに興味がない訳ではもちろんない。愛している女とセックスをしたいという欲望ももちろんもっている。しかし私も私の女もセックスに関してはそれぞれの想いがあるし、セックスが必要不可分のことでもないのだ。私にとってはそれよりも淫靡な妄想の具現の方が重要なのである。それこそそれを抜きにしては関係の存在意義もないのである。淫靡な妄想は私の本質だからである。
そういった意味では、二人の関係は淫靡な精神恋愛、いやらしいプラトニックラブである。

私のSMもどちらかというと肉体よりも精神を責める割合が多い。体への責めそのものは全くソフトである。女に言わせると、鞭や蝋燭を使って貰った方がよっぽど良いと言うのだが、私は女を悶えさせる「快楽責め」に拘っているのだ。女にとっては悶えさせられることが辛いのだ。女の羞恥心に訴える鬼六風の責めが大好きなのである。逝かされることを恥辱だと感じる女でないと私は燃えないのである。

| 鬼縄のSM | 09:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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私の女 2

私の女は言う。

「そもそも団鬼六の小説の情景を具現しようとするなんて無理なのよ!」
「鬼六の小説の出てくるような『女』なんて実際にはいないのよ」

確かに、その通りである。
官能小説というものは想像の産物であって、男の勝手な理想を表現しているに過ぎない。「痒み薬」なんて実際にはないのに、平気で登場させるくらいですからね。
でもそこに描かれている淫靡な情景を実際に存在する、具現できるものだと結構信じちゃう男は甥のです。かく言う私なんかそのいい例です。

その小説のような「理想の情景」、「理想の女」はやはり存在しないのかと諦めかけていたら、実はそれを否定した「私の女」がそれを具現していたのだ。
もちろん小説の世界そのものではないことは当然だが、雰囲気というか、その匂いというか、そういうものが私には伝わってくるのである。本人が小説の具現を否定しているのだから、本人はそれを意識してはいないだろうし、むしろ嫌悪しているとさえ思えるのであるが、しかしそれは私の勝手な妄想なのかもしれないが、私にはその女を通して、鬼六の小説の世界が見えてくるのである。

私の勝手な妄想は、私の女にとっては迷惑なことなのではあるが、そこに「愛」が存在しているので乗り越えられるである。
私の女はけっしてMではないのに、被虐の匂いがするのは何故なのだろう。私は鬼六の小説のように縛られたくない女を縛っているのである。

| 鬼縄のSM | 06:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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最高級の痒み薬 3

この痒みを解いて欲しければ俺のSM奴隷になり、私を喜ばせる為にいかなる責めも甘んじて受けると誓うのだなと、苦悩の極みに達した女に浴びせ続け、女も今はすっかり自分の意志は失わせてそれへの承諾を示したのである。

この世の物とは思われぬ激烈な痒みにこれ以上耐える力は女になかった。羞恥の源泉は火が付いたようにうずき始め、その下方に秘められた菊の箇所もずきんずきんと突き上げるようにうずき出している。

「く、くっ、お、お願いです。ああ、もう」

と、女はねっとり汗を滲ませた顔を揺さぶりながら悲痛な声音を漏らすのだ。

「じゃぁ、ここではっきり自分の声で誓うのだ。私は鬼縄さんの、どんなに淫靡でいやらしい責めでも受けて、俺を楽しませるとね。ふふふ。。。。」

私はそう言って楽しそうに詰め寄り、先端が渦巻き状になっているガラスの筒具をとろんと光のなくなった目を見開いている女の気品のある鼻先へ近づけるのだった。

「そうすれば、この渦巻き型の責め棒をがっぽり呑み込ませて、キリキリえぐって痒い悩みを解決させてやるよ」

女は太それを目にして口惜しいとも、哀しげとも付かぬ何とも言えぬ顔を見せたが、ねっとり潤んでギラギラ光る美しい黒眼を向けて、

「わかったわ。だからお願い。どんな方法でもいいから、この痒さから私を救って」

と、甘えかかるような声を出し、そして、静かに目をとじ合わせていきながら、

「私、鬼縄さんの、どんなに淫靡でいやらしい責めでも受けて、鬼縄さんを楽しませて差し上げますわ。」

と、はっきりした声音で言うのだった。


| 鬼縄のSM | 07:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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最高級の痒み薬 2

「この痒み薬をお尻の蕾にも塗ってやろう」

「あっ、な、何をするのっ、・・・」

女は私の指先に気づくとけたたましい悲鳴を上げた。
その部分に痒み薬が塗られているのを知覚した女は、一瞬、目眩が起こり、痛烈な汚辱感と恐怖感とで全身をひきつらせた。

「そ、そんなに私が憎いの」

女は一声そう叫んだまま、後は火のような戦慄でぶるぶる双臀をふるわせ、サッと顔を捻ってその汚辱の火玉の中へ自分をのめり込ませていく。

気が狂うばかりの痒さに更に拍車をかけるかのよう、その淫靡な箇所にまで薬を塗り込めてくる悪魔のような指、女はキリキリ歯を噛み鳴らしながら、悶えている。

深く秘めた可憐な菊の蕾は次第にやわらかいふくらみを持ち始め、その蠱惑的な小さな花弁はとろりとした収縮を見せるようになる。

「ああっ、もうだめ」
それから十数分後には女は遂に屈服を示した。

| 鬼縄のSM | 08:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「恥」が「美」を生むのである。

倒錯者に拉致され、いたぶられて調教されるような女性は、おとなしくて弱々しいと思ったら大間違いである。
サドの描く犠牲者達は、全く抵抗もせずに、或いは少なくとも抵抗の様子が描かれることもなく、リベルタンの思うがままにされてしまう。そこでは犠牲者達は、単なるオブジェに過ぎないのである。
だが鬼六小説の場合、主人公は、このように辱められながら、未知の快楽に目覚め、ますます美しさが磨かれ、妖しさを加えていくのだ。
そのような運命に耐えられるだけでも間違いなくバイタリティのある女性なのだ。

私の妄想の中で、女をおとしめるのが主たる願望であると書いているが、女のステータスを落とすという意味ではない。おとしめて私の奴隷にしてしまうとか、その地位、ランク、気品などを低下させるということではないのである。むしろそういうものを崩されてはかえって私の妄想も崩れてしまう。
言い換えれば女をおとしめるというのは、そのステータスを維持させたまま恥辱を与える、つまり「恥」をかかせるということなのである。「恥」は日本の伝統思想であり、文化である。私のSMは精神性だというのもここに理由がある。「恥」は個人の価値観によって違う。悶え、逝くことを恥だとは思わない女性もいるだろう。そのような女性を私はおとしめることは出来ない。
「恥」は伝統的な妖しい「美」を生む。縛られた女性が美しいのも「恥」があるからであって、物理的な束縛が「美」を生む訳ではないのである。

その精神性によって私の妄想の女は、責める毎にますます美しさに磨きをかけ、気品を高めてゆくのである。

| 鬼縄のSM | 07:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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最高級の痒み薬

「これを塗り込められると痒くて痒くてたまらなくなるんですよ」

妄想の女が眼前に大胆な開股の姿態で縛りつけられている。最初は女のその部分はそんな格好で拘束されたとはいえ、うっすらと扉を開く程度であったが、私のねちっこい邪悪な愛撫を受けた今は、羞恥の花芯など露わに見せ、満開の薔薇をそこに示しているのだ。

女は羞恥や屈辱を感じ取る余裕などもうなかった。じわじわというに言われぬ痒みがその部分からこみ上がり、やがてそれは開股された太腿の筋肉まで痙攣させるほどの激しさを加えてきたからである。女は美しい眉を寄せ、歯を食いしばり、割られた二肢と緊縛された上半身とを同時に悶えさせ始めた。

「ふふふ。。。どうやら効き目が出てきたようだな」

「か、かゆいわ」
女はもう見栄も体裁もないといった昂ぶった気分で唇をわなわな震わせた。

「そうか。かゆのか。それはよかった」

痒みはますます急調子で女の肉体を蝕み始めた。

「ああ、か、かゆいわっ。お願い、この縄を解いて下さいっ」
と、激しい喘ぎと一緒に口走る女を私はただ見つめている。

「縄を解いて貰ったら、まず、どこへ指を持って行きたいんだ?」

「ふふふ。。しかし、気の毒だが縄は解いてやる訳にはいかないよ。まぁ、ゆっくりと悶える姿を私に楽しませてくれよ」

「おねがいっ、何とかして。もう、私、気が狂いそう」

今回の痒み薬は、闇のブローカーから高額な金額で最高級品を取り寄せたのだ。さすがの強気で気位の高い女もこの薬の強烈な痒みに耐えかねて思わず救いを求めるのだった。

| 鬼縄のSM | 04:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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SMは根源的な幻想

前戯が行われるのは性器等の性感帯を物理的に刺激して興奮させるためではなく、性に関する様々な幻想を呼び起こして調整し、性交可能な心理態勢にもってゆくためであると言われている。
人間の性能力は幻想に支えられているのだから、このような幻想の喚起と調整はその度毎に行わねばならず、それに失敗すれば不能に陥るのである。男と女が性交できるようになるためには、性交の前にそれぞれの幻想を擦り合わせ調整して、二人の間に共同幻想を築かなければならないのだから大変なのである。

この説明はノーマルな性交の前の前戯に関して説明されたものだが、SMはまさにこの幻想の擦り合わせと調整を性交の準備としてではなく、目的としていることに他ならない。SMにおいて二人の幻想の擦り合わせと調整に失敗すれば、二人の関係性自体が成立できなくなる。

男が、女がほかの女や男では性関係を構築できないという場合、それは、性に関するそれぞれの幻想に共通点がなく、または見つからず、その二人の間に性の共同幻想が築けないからであろう。
つまり、前戯は性のタブーをなし崩しにしながら不能の危険を克服するため、そして、性交を可能にする共同幻想を築くために必要であると考えられるのである。

更に、性のタブーは、不能対策の一つであるだけでなく、その機能はもっと根本的なものであって、本能に支えられない人間の性欲をそもそも性のタブーが支えているのではないかと考えられるのである。言い換えれば、人間の性欲は性のタブーがあるからこそ存在しているのではないか。
SMはまさに性のタブーの一つであるので、人間の根源的な幻想の一つであると言えるのではないだろうか。

| 性的SM論 | 03:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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私の女

私の女は、今までどの女と情景を楽しんでも見ることの出来なかった『風情』をかもしだしてくれる。人は無いものを表現する事は出来ない。この女の内面には日本の美学を感じる。美しい。その女の美しさをもっと見たい。だから私は責めるのである。それは女には酷な事かもしれないが、俺はその美を求めてやまない。

私はこの女の「美」を得るために、数千万円の借金をしたのである。
私はこの女に真剣なのである。だからこそ私はこの女に私の全てをを残そうと思う。

それとたまに、妄想の女とセックスはするのかという質問を頂く。

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| 鬼縄のつぶやき | 09:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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女性の「美」への憧憬

団鬼六の小説の世界の根底にあるものは、女性の「美」への憧憬であると私は思う。
けれども時代と共に、団鬼六好みの「美」は姿を消して行く。「和」から「洋」へとライフスタイルが移り変わり、白昼夢 (桃園文庫、1975年)に書かれているように、芦屋でも屋敷が取り壊され、集合住宅と化す。しかしもっとも変わってしまったのは『女性』なのかもしれない。

敗戦後、旧華族は暮らしに困り、『地獄の天使』(1982年)で元子爵夫人は詐欺をはたらき、貴婦人コンプレックスを持つ男達が、いとも簡単に騙される。だが今、果たしてこのように男性の憧れの対象となるような『令夫人』はいるのだろうか。だいいち、言葉使いも行儀も違いすぎる。

しかし全くいないかと言えばそうでもない。『令夫人』そのものではないが、その要素を含んだ女性は、少ないがいるのである。
私の女がまさにそうなのである。私はその女の外見と内面の「美」に憧れ、その『美』を際だたせる為に縛り責めるのである。まさに団鬼六の小説世界の具現である。

そしてそれは失われつつある「和」の美への憧憬でもある。
『蝋人形』(1976年)の、筒井社長の発言は、まさに鬼六のSM美学を代弁している。


『皮なんてものはね、毛唐を縛るのならいいだろうが、日本の女の肌には合わないよ。日本の女の真白な餅肌には麻縄が一番似合うんだ。猿轡だって豆絞りの日本手拭いが実に色っぽく女を引き立たせるものなんだよ。・・・・・・・・そこへいくと西洋の皮で出来た猿轡なんか成る程、完全に声を封じるために皮玉なんかがとりつけてあるけれど実用向きなだけで色気にとぼしいね。あれに色気を感じるなんて言う君はやっぱり変質者なんだよ』

| 鬼縄のSM | 05:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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何回逝かせましょうか。

「人の字」にベッドに縛った女に電マによる快楽責めを味あわせるのは私の楽しみである。
女は悶えさせられるのが一番辛いのである。何故なら悶え、逝かさせられる事が女の最大の恥辱だからである。憎い、かたきの男の手によって悶えさせられ、その最も恥ずかしい姿を男に楽しまれることがこの女にとってどれほど辛いことなのかを私は知っている故に、この女を悶えさせ、逝かせることが私にはたまらないのである。

女にしてみれば鞭や蝋燭で責められるほうがどれほどいいか。苦痛ならまだ耐えることが出来る、と思うのである。
月に一度、この男に痴態を晒さねばならない己が口惜しくて仕方がないのである。男の責めによって味あわさせられる「快楽」は自分の理性でいかに抑えようとも、どうしても負けてしまう自分の女の体が恨めしかった。
今月もその日がやってきた。

悶え、逝くことを恥辱と思わない女に、「快楽責め」をしたところで責めにはならない。自慰の手助けをしたやるようなものだ。しかしこの女には紛れもなく最大の責めとなるのである。
女は悶えまいと平静を装い、逝かされまいと必死で耐えようとする。その姿が何ともいじましい。

電マを女の最も敏感な場所に軽く当てる。
「うっ」
女が反応すれば電マを離す。これを繰り返すのである。
ふふふふ。。。。。
決して逝かせない。簡単には逝かせない。最後まで逝かせない。

そして心ゆくまでなぶったらゆっくりと逝かせる。しかし一度逝ったぐらいでは許さないのはもちろんである。何回逝かせましょうか。

| 鬼縄のSM | 03:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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