倒錯者に拉致され、いたぶられて調教されるような女性は、おとなしくて弱々しいと思ったら大間違いである。
サドの描く犠牲者達は、全く抵抗もせずに、或いは少なくとも抵抗の様子が描かれることもなく、リベルタンの思うがままにされてしまう。そこでは犠牲者達は、単なるオブジェに過ぎないのである。
だが鬼六小説の場合、主人公は、このように辱められながら、未知の快楽に目覚め、ますます美しさが磨かれ、妖しさを加えていくのだ。
そのような運命に耐えられるだけでも間違いなくバイタリティのある女性なのだ。
私の妄想の中で、女をおとしめるのが主たる願望であると書いているが、女のステータスを落とすという意味ではない。おとしめて私の奴隷にしてしまうとか、その地位、ランク、気品などを低下させるということではないのである。むしろそういうものを崩されてはかえって私の妄想も崩れてしまう。
言い換えれば女をおとしめるというのは、そのステータスを維持させたまま恥辱を与える、つまり「恥」をかかせるということなのである。「恥」は日本の伝統思想であり、文化である。私のSMは精神性だというのもここに理由がある。「恥」は個人の価値観によって違う。悶え、逝くことを恥だとは思わない女性もいるだろう。そのような女性を私はおとしめることは出来ない。
「恥」は伝統的な妖しい「美」を生む。縛られた女性が美しいのも「恥」があるからであって、物理的な束縛が「美」を生む訳ではないのである。
その精神性によって私の妄想の女は、責める毎にますます美しさに磨きをかけ、気品を高めてゆくのである。
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