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鬼縄のSM blog(FC2改)

鬼縄のSMブログです。淫靡な妄想の世界を彷徨っています。

2006年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2006年04月

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「する」と「される」の関係

動物の性交は、雄が雌の上に乗り、雄が能動的に動いて雌は受身であるように見えたとしても、本質的に雄と雌の共同作業であるが、人間の性交は、男にとって女性器及び女体がフェティッシュである限りにおいて、男がするもので、女はされるものとされてきたし、今もその概念は残っているように思う。

かつて性交は男が求めれば彼の妻か愛人か情婦である女は応じるのが当然だとされていた。女には不合理なことではあったが、男に一方的に好都合なこの前提には、男の不能に対する対策と言う面もあったという説がある。
私ごとであるが私はいつでもそこに女体があれば勃起するというとても便利なものを有していない。ある一定の条件がととなわなければ勃起や射精が出来ないのである。その前提というのは私の場合はSM嗜好であることは当然なんだけれども。だから女の都合で前提条件なしに求められても用を足さないことになる。

そういうことで、男が求めれば女は応じなければならないとされてきたのは、いつでも任意に勃起させることが出来るわけではないペニスが勃起しているチャンスを優先せざるを得ないという男に好都合な理由によるものであろう。
この概念はまさに性差別的概念であるが、男の不能対策という立派な理由により確立されてきたのではなかろうか。

さて、一旦このような概念が容認されると、男がそこにつけ込むのは自明の理である。必要な限度を超えて拡大強化されてきたのは間違いない。女がこの点で譲歩してしまったのには、男に不能になられては元も子もないので、女の方も譲歩せざるを得なかったのではなかろうか。
つまり女が譲歩しないと、性交が成り立たず、したがって男が性交において主導権を持つことを認めたのではないか。まさに男は弱点を利用して支配権を得たのである。弱者の脅迫ということである。

| 性的SM論 | 12:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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女の興奮

男は女体を対象化し、道具化し、フェティッシュ化、商品化し、それにまつわる幻想に欲情することとなった。では女はどうであろうか。

結論から言えば性交において男と女は、男が女体を楽しみ、女が男の体を楽しむというような対等で相称的な関係ではないのである。
アダルトビデオなりヌード写真でも男の体(ヌード)を見て興奮するということは女にはないようである。むしろ女も女体を見て刺激を受けるようである。レスビアンの女ではなくとも女は男の体よりも男と同様に女体にまつわる幻想に興奮するのである。
その幻想とは女体に興奮する男の興奮を想像して興奮するのではないかと思われる。

このことは、女にとっても父親は幼児期において快感と安定の源泉ではないので、男の体と性器は、女にとっても性対象にならないのである。
男の場合は、男根期の性欲がそのまま性器期に移行するが、女の場合はこの形の性欲は挫折を強いられ、男根を膣に入れられる受動的性欲に逆転して性器期となる。しかしこの逆転過程は完遂されず、能動的性欲も残存すると言われている。これが女にとっても女体を魅力的な性対象とさせるのである。
女が女体に興奮する男の興奮に興奮するのは(ややこしいなぁ)、残存している自分の能動的性欲をその男に仮託し、その男の立場に身をおいて、自分が女体に興奮すると言われている。

女が男の外見にそれほどこだわらないのはそもそも男の体や性器が女の性欲対象ではないからである。むしろ女は男が自分の体(女体)に興奮してくれないと興奮できないのである。
男は女を眠らせて犯したり、女の死体に欲情したり、女が何の反応を示さずとも性交できたりする事例があるが、女は体の構造的なこともあるだろうが無反応な男に欲情するという話はあまり聞いたことがない。

繰り返すが、幼児期においては男の子にとっても女の子にとっても、母親が快感と安定の源泉であったので、どちらも女体にまつわる幻想を求めるのである。
同性愛者についてはまた別の考察を待たねばならないことはもちろんである。

最後に私の個人的なことを言えば、私は女が興奮してくれないと興奮しない方だが、私は女の受動的性欲を仮託しているのであろうか。SがMを苦しめたり悶えさせたりする行為は、実は女性的性欲なのかもしれませんな。(この辺のことは考察不足です。悪しからず。変態の考察は難しい。)

| 性的SM論 | 04:53 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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SMにおける表現

表現とは、ひとのなかに内在している或るものをほかのひとへ伝達するために外在化することです。
身振り手振り、声をあげること、言語を用いること、絵を描くこと、物体を造ること、音楽を作り演奏すること、 舞踏をすること、演技をすること、運動で競い合うこと。表現が伝達の手段であるということでは、 芸術、スポーツ、科学、政治、経済、宗教、戦争、強姦、殺人にいたるまで、人間の事象というのは、地球を舞台にした全員参加の表現の一大展示会と言うことができます。
一大演劇と言わず、<一大展示会>と言ったのは、そこには台本も筋書きも演出家も存在しないからです。


私のSMも私の心に内包する或るものを表現すると共に、実は相手の女性の心に内包する或るものを引き出したい、つまり表現させたいという願望がある。
或るものとは人によっては「愛情」などとおっしゃる御仁もいらっしゃるが、私の場合は「陵辱嗜好」である。そして当然相手の女性から表現させたいのも「被陵辱嗜好」なのは当然である。

しかしながら、
内在する<或るもの>を表現する欲求は、必ずしも表現されたありようにおいて、その欲求を満足させられるものとは限らない。表現ということがはらむ最大の誤謬は、内在している<或るもの>を完璧には外在化できないというところにあります。


つまりSMにおいては「陵辱嗜好」や「被陵辱嗜好」を心に内包していてもそれを完璧に表現できない。しかし完璧に表現できなくともそれを相手に伝えたい欲求は人間である以上捨てることは出来ない。然るに技術の研鑽というものが必要になってくるのです。
ここで言う私の「技術」とは緊縛技術だけのことではない。そういったものも含めた「表現」の技術である。これはSであってもMであっても同じである。

SM嗜好などというものはまさしく非日常または非現実的な心の内にある隠されたものである。それを具現しようとするのであるから通常のモラルなどに縛られていてはとっても表現できるものではないし、日常的な表現では成し遂げられないものでもあると思う。非日常的な演劇に近い空間を創出する必要がある。その演劇的空間はもちろん台本も筋書きも演出家も存在しないのではあるが、嗜好が共有できていればおのずとその空間も創出し、共有できるはずなのである。

他者がいれば心に内包する或るものの表現は不可欠である。なにもこれはSMに限ったことではない。また他者の心の内を探りたいという欲求もSMに限ったことではない。SMにおいてもそれがあるというだけである。
しかしSM嗜好はより心の内に隠されているものである。そのより隠されているものを表現するまたはそれを認識するには共有するものがどうしても必要なのである。絵画に興味や知識がなければ作者の心に内包する或るものを認識できないのと同じである。
その共有認識とはSMの場合嗜好であると思っている。嗜好の一致を伴わないSMはそこに愛情があっても不幸である。SMの場合愛情は共有認識とはならないのである。

SMは通常のモラルから離れたところにある。SMを通常のモラルと絡めて考察すると迷路に入り込む。SMはそういった通常なものから切り離されて考えるべきものではないだろうか。

| 鬼縄のつぶやき | 02:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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設定好き

そもそも性的嗜好なるものは小学校3年位までには確立するものなのです。そし
て確立された性的嗜好はそれ以後あんまり発展しない。これは私だけでないと思っ
ていますのでそれほど凄いことでもなく、皆さんはその事を忘れてしまったに過
ぎないのだと私は思っています。子供を舐めてはいけません!ただこの頃の子供
には知識と能力がないだけのことです。大人の女性は男の子から視覚的または空
想的に陵辱されている可能性を知っておいた方が懸命ですよ。

私は設定好きです。これはSMに限らず何事においても設定好きなのです。we
bに関しても運営よりも設定の方がどちらかというと好きです。
そのおかげで次から次へと新しいスクリプトを作ってしまいます。内容が先では
なくまずスクリプトが先にあり、このスクリプトを使うために後からコンテンツ
を決めるという風にです。

宣伝になりますが、またまた新しいスクリプトを2つ設置してしまいました。
http://smbook.kir.jp/book-cgi/sscb/c-board.cgi
http://smbook.kir.jp/book-cgi/sscb/c-board.cgi?id=technical
SM事故とSM技術に関するフォーラムです。


子供の頃にやっていたこのSM設定は意外と大人の女性には不人気です。子供の
時のように無邪気に没頭できないのでしょう。私自身も照れてしまいますので、
相手の女性も同じなのでしょう。このテレを排除できればもっと隠微なSMシュ
チエーションを共有できるのではないかと思っています。
私のSMは子供の頃の「ごっこ」遊びと大差ないのです。

私のSM Blogのデザインを変えてみました。
http://smbook.kir.jp/blog/

こういった設定ばかりやっていて肝心のエントリーを書く事をしないのが困った
ことなのです。
そう言えば最近女を縛っていないなぁ。。これも困ったことです。

| 運営日記(新着情報) | 07:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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