「する」と「される」の関係
かつて性交は男が求めれば彼の妻か愛人か情婦である女は応じるのが当然だとされていた。女には不合理なことではあったが、男に一方的に好都合なこの前提には、男の不能に対する対策と言う面もあったという説がある。
私ごとであるが私はいつでもそこに女体があれば勃起するというとても便利なものを有していない。ある一定の条件がととなわなければ勃起や射精が出来ないのである。その前提というのは私の場合はSM嗜好であることは当然なんだけれども。だから女の都合で前提条件なしに求められても用を足さないことになる。
そういうことで、男が求めれば女は応じなければならないとされてきたのは、いつでも任意に勃起させることが出来るわけではないペニスが勃起しているチャンスを優先せざるを得ないという男に好都合な理由によるものであろう。
この概念はまさに性差別的概念であるが、男の不能対策という立派な理由により確立されてきたのではなかろうか。
さて、一旦このような概念が容認されると、男がそこにつけ込むのは自明の理である。必要な限度を超えて拡大強化されてきたのは間違いない。女がこの点で譲歩してしまったのには、男に不能になられては元も子もないので、女の方も譲歩せざるを得なかったのではなかろうか。
つまり女が譲歩しないと、性交が成り立たず、したがって男が性交において主導権を持つことを認めたのではないか。まさに男は弱点を利用して支配権を得たのである。弱者の脅迫ということである。
| 性的SM論 | 12:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑