SMにおける表現
表現とは、ひとのなかに内在している或るものをほかのひとへ伝達するために外在化することです。
身振り手振り、声をあげること、言語を用いること、絵を描くこと、物体を造ること、音楽を作り演奏すること、 舞踏をすること、演技をすること、運動で競い合うこと。表現が伝達の手段であるということでは、 芸術、スポーツ、科学、政治、経済、宗教、戦争、強姦、殺人にいたるまで、人間の事象というのは、地球を舞台にした全員参加の表現の一大展示会と言うことができます。
一大演劇と言わず、<一大展示会>と言ったのは、そこには台本も筋書きも演出家も存在しないからです。
私のSMも私の心に内包する或るものを表現すると共に、実は相手の女性の心に内包する或るものを引き出したい、つまり表現させたいという願望がある。
或るものとは人によっては「愛情」などとおっしゃる御仁もいらっしゃるが、私の場合は「陵辱嗜好」である。そして当然相手の女性から表現させたいのも「被陵辱嗜好」なのは当然である。
しかしながら、
内在する<或るもの>を表現する欲求は、必ずしも表現されたありようにおいて、その欲求を満足させられるものとは限らない。表現ということがはらむ最大の誤謬は、内在している<或るもの>を完璧には外在化できないというところにあります。
つまりSMにおいては「陵辱嗜好」や「被陵辱嗜好」を心に内包していてもそれを完璧に表現できない。しかし完璧に表現できなくともそれを相手に伝えたい欲求は人間である以上捨てることは出来ない。然るに技術の研鑽というものが必要になってくるのです。
ここで言う私の「技術」とは緊縛技術だけのことではない。そういったものも含めた「表現」の技術である。これはSであってもMであっても同じである。
SM嗜好などというものはまさしく非日常または非現実的な心の内にある隠されたものである。それを具現しようとするのであるから通常のモラルなどに縛られていてはとっても表現できるものではないし、日常的な表現では成し遂げられないものでもあると思う。非日常的な演劇に近い空間を創出する必要がある。その演劇的空間はもちろん台本も筋書きも演出家も存在しないのではあるが、嗜好が共有できていればおのずとその空間も創出し、共有できるはずなのである。
他者がいれば心に内包する或るものの表現は不可欠である。なにもこれはSMに限ったことではない。また他者の心の内を探りたいという欲求もSMに限ったことではない。SMにおいてもそれがあるというだけである。
しかしSM嗜好はより心の内に隠されているものである。そのより隠されているものを表現するまたはそれを認識するには共有するものがどうしても必要なのである。絵画に興味や知識がなければ作者の心に内包する或るものを認識できないのと同じである。
その共有認識とはSMの場合嗜好であると思っている。嗜好の一致を伴わないSMはそこに愛情があっても不幸である。SMの場合愛情は共有認識とはならないのである。
SMは通常のモラルから離れたところにある。SMを通常のモラルと絡めて考察すると迷路に入り込む。SMはそういった通常なものから切り離されて考えるべきものではないだろうか。
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