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鬼縄のSM blog(FC2改)

鬼縄のSMブログです。淫靡な妄想の世界を彷徨っています。

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ポルノに登場する女達

ポルノに登場する女達は、大抵は現実の恋人より美人で魅力的で、その上、現実の恋人がやってくれそうにない屈辱的な肢体やサービスを示してくれるし、現実には満足されそうにない変な倒錯的嗜好を満足させてもくれるので、ポルノを見続けていると、男は、現実の性交でも、つい、相手の女にとんでもない変な要求をしたり、彼女を思いのまま粗末に扱ったりしがちである。映像の中でしかないにせよ、女が思い通りになるので、女の側の満足をないがしろにして自分さえ満足すればいいと言うような自分勝手なやり方で性交する男を作る点において、ポルノは害が大きいと言えるかもしれない。アダルトビデオばかり見ていて、女は強姦してやると喜ぶとか、強姦した男を好きになるとか思いこんだ男とか、相手の女にいきなり「顔射」する男とかが出来上がってしまうのである。

私の場合は、私の思い描く情景を表現してくれるビデオを見つけるのはけっこう至難の業である。それゆえにそういうビデオと出逢った時の喜びもひとしおである。ビデオだけでなく、私の想いを受け止めてくれる女と出逢うのもこれまた難しいのである。幸いなことに私は素晴らしい女と出逢えてきた。出逢ってきた女達に感謝している。

| 性的SM論 | 07:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ポルノは思いのまま

なかには、自分のヌード写真を多くの男達が一人密かに見ながら、マスターベーションをしているということ、自分がオナペットとして使われているということを知って、誇らしいと喜ぶ女もいるが、そのようなことは想像するだけで気味が悪いという女もいる。差別的性分化の中では、男の不能をどうにかしようとする対策はすべて性差別的にならざるを得ないが、ポルノもその例に漏れない。ポルノの重点は、刺激剤としての女体と女性器のイメージ、すなわち男の性欲を刺激してなかなか勃起しないペニスを勃起させる為の性対象、「もの」としての女体と女性器のイメージにあり、その女体と女性器が魅力的でありさえすればよく、その持ち主は誰でもいいからである。身体さえ魅力的であれば、個人の性格や資質などどうでもいいのだ。いやむしろ余計なその個人を特有化する性格などは不要なのだ。

現実に女と性交するには、ふられて恥をかく危険に怯えながら、彼女がその気になるように口説く為に多大の時間とエネルギーを使わなければならないし、やっと性交に持ち込んでも、いろいろ彼女に気を遣い、自分のやりたいことを抑え、上手くゆかないのではないか、彼女を満足させることが出来ないのではないか、セックスの下手な男だと馬鹿にされるのではないかなどと恐れながら、時にはあまり気の進まないこともやり、無理して射精を引き延ばしたりもしなければならないし、嫌になっても途中で勝手にやめる訳にはゆかないが、ポルノを見ている分には、たくさんいろいろなのがあるから、気に入らなければ、すぐ他のに代えればいいし、いつ中断してもいいし、全く思いのままである。

| 性的SM論 | 06:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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男の性欲は社会的、政治的問題?

野坂昭如の『エロ事師たち』はポルノを生業にしている男達の哀歓を描いて絶妙に面白い作品であるが、エロ事師の一人、スブやんの次のような発言はまさにポルノのみならず、SMの本質を適切に言い表していて興味深い。「男どもはな・・・・・切ない願いを胸に秘めて、もっと違う女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてへんが、いてるような錯覚を与えるのが、わいらの義務ちゅうもんや・・・・・・・エロを通じて世の中のためになる、この誇りを忘れたらあかん・・・・・・目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでも言うかなあ』、など。しかし、何故男達はこれほどまでしてペニスを勃起させ、性交したいのであろうか。女どもには到底理解できない欲望(性欲)が存在している。この欲望(性欲)の存在にこそ、大きな社会的、政治的問題が潜んでいるのである。ゆくゆく論じようと思う。
出来ることならこの欲望(性欲)を男達は放棄すべきである。放棄すれば社会的、政治的問題から解放されるのではあるが、残念なことにそれは一部の男達を除いては出来ないことであろう。

| 性的SM論 | 08:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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偽善者どもは地獄に堕ちろ!

ポルノには性本能が壊れていてどうやればいいか分からない男と女にセックスのやり方を教えるという役目もあるが、基本的には、不能に陥る危険に常にさらされている男に、女体と女性器について魅力的な幻想を抱かせ、性交への意欲を奮い起こさせる為のものである。一部の女は、ポルノを見たり読んだりする男達をいやらしいと軽蔑するが、いやらしいと言うことは軽蔑されるに値することであろうか。

SMをテーマにする私のブログやサイトは削除や規制対象にされているが、そもそも「性」をテーマにしたブログやサイトが規制されているのである。SMをはじめとする「性」をテーマにしたブログやサイトを規制していいものだろうか。規制して当然だとおっしゃる御仁こそ人間の本質を理解していない人間なのである。そういう偽善的人間が社会をおかしくしてきたことを理解していないのである。結婚しているカップルが子供を産む為だけに行うセックスこそ正しいセックスなどとおっしゃる偽善者こそこの日本の社会を駄目にしてきたのである。男と女の性的交渉を否定する偽善的人間は地獄に堕ちるだろう。いや墜ちなければならないのである。

さて、現実の男達は性交を心おきなく充分楽しみ、更にその他に、暇な時に余裕を持ってポルノをも楽しむというものではない。現実の男達は余裕無くポルノを必要としているから、時には本末転倒して手段が目的と化し、現実に女と性交するより、ポルノでマスターベーションをする方がいいという男が現れたりするが、もしかしたらこれは本末転倒ではないかもしれないのである。
女は男とのセックスに期待をしていない場合がほとんどである。セックスに期待をしているのは男だけである。女は最初から男とのセックスよりマスターベーションで快楽を得ているのである。

G・グロデックは、マスターベーションが人間の第一の本来の性活動であって、性交の代理などではなく、性交こそマスターベーションの代理であると述べている。性交は男にとっては膣を、女にとってはペニスを摩擦の道具に使ったマスターベーションであると彼は言っている。そうだとすれば、マスターベーションの為に用いられるポルノは重要な役目を果たしているのである。性交を目的としていないSMも同じく、私のような一部の人間にとっては、重要な存在意義と言っても過言ではないのである。これを認めないのは、私の存在を認めないのと同義語である。

精神科医の福島晃によれば(『ものぐさ人間論』)、ポルノが厳しく禁止されている国ほど性犯罪が多いそうである。このことからも偽善者どもはやはり地獄に堕ちるべきであろう。

| 性的SM論 | 07:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「数」は重要なのか

男の基本的不能を克服し、いわゆる正常な性交を求める性欲(性交欲、性器性欲)を男に持たせる為、人類の文化はいろいろな対策を講じてきた。「女」の発明、女の性的魅力の創出、女体特に女性器の対象化、道具化、フェティッシュ化、神秘化はそうした対策であった。女を男にとって都合のいいように、使いやすいように、或いは使いたくなるように作り替えるこれらの対策の他に、男の側に働きかけ、出来るだけ多く性交を行わせようとする対策もある。性交した女の「数」を問題にするという対策である。少し前の時代の男達は、例えば、「千人斬り」とかいって性交(征服)する数を男達の憧れる偉大な業績としてきた。
現代の男達はそう言う馬鹿げたことに憧れたり、問題にしたりしなくなったと思っていたら、いまだに「数」を話題にする男がいる話を聞いてびっくりしたのであるが、この文化は意外と根強いのかもしれない。

もし性交が本能に基づく自然な行為であれば、業績目標を掲げて男を激励したり、業績を達成した男を賞賛したりする必要はないはずなのである。また、男達は一晩に五回やったとか七回やったとか九回やったとかよく自慢しあったりしたというが、男の性欲を「数」で誇るなどと馬鹿げた文化が横行していたのである。差別的性文化においては、性能力の強さが男のプライドの不可欠の一部となっているので、男は性的に弱いと言われるのを恐れ、恥をかくまいとして、いじましいほど無理してがんばったのである。
実は私も性的弱さを隠す為にSMのSをしているのかもしれない。私はいつでもどこでも性交が出来る男ではない。強姦してまで性交できる男がある意味羨ましいと思っているぐらいである。不能ではないが性交にはコンプレックスを抱いている。その弱さを隠す為に女を縛っているのかもしれない。

しかし、何はともあれ、男が性交した女の数や一晩にやった回数を誇る時、女の身体は男の性能力の強さを証明する為の実験台でしかない訳である。
S男が縛った女の数を誇ったり、M男が関係したS女性の数を問題にしたりすることを聞いたりすると、男というものは性交を問題にしないSM世界でさえ「数」は重要なのかと苦笑してしまうのである。

| 性的SM論 | 04:36 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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侮辱共同幻想

マゾヒズムとは、不可避的に蒙らされた屈辱をあたかも自ら求めたかのごとく自己欺瞞することによって、その際の屈辱感を薄めようとする、或いは、ある軽い屈辱をわざわざ受けることによって別の重大な本当の屈辱をごまかそうとする自我の防衛策ではないかと考える説がある。
女になる為にはこのような自己欺瞞が必要であることにフロイドは気づいていたというのである。性交に関して、女は、犯される屈辱にマゾヒスティックに甘んずるか、それに反発して脅迫的にやってやってやりまくるか、男にお預けを喰らわせて復讐するか、全く拒否するしかないのであろうか。

このような考え方は、性交とマゾヒズムを結びつけて論じるものであるが、SM愛好家ならよく理解しているように、SMと性交は必ずしも結びつかないのである。どちらかというと性交ナシのSMプレイが基本である。お互いに性的サービスはするだろうけれど、性交が必須であることはない。
性交が女にとって屈辱的であることは分かるが、屈辱的であるはずの性交を必ずしもしないSMにおいて、自己欺瞞をしてSMプレイをしなければならないことがあるであろうか。私にはマゾヒズムが自己欺瞞の結果生じているという説には賛同できない。

さて、性交を女に対する男の侮辱であるとする共同幻想を克服すれば問題は解決するであろうが、その克服は何故難しいのであろうか。お互いの了解の下に女を侮辱する幻想をプレイ化して行うSMプレイは女を真に侮辱しているのであろうか。それとも反対にSMは性交における侮辱共同幻想からの克服手段であろうか。

| 性的SM論 | 06:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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女は男の為に発明された製品

女とは、はっきり言えば、男の肉欲ないし性欲を満足させる為に発明された人類文化の奇妙な製品と言えるのである。子育ての為には「母」という別の製品が用意されている。『旧約聖書』の「創世記」によれば、神は「人が一人でいるのはよくない。彼の為に、相応しい助け手を作ろう」と言い、人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、人から取ったあばら骨で一人の女を造り、人のところへ連れてこられた、ということになっている。すなわち、女は男の為に造られた訳で、この話は、人類の男と女の生物学的起源の説明だとすれば荒唐無稽であるが、男の付属物としての女という製品の文化的起源の説明だとすれば、誠に言い当てていて、どこもおかしいところはない。

人類文化において、「女」が男の為に発明された製品であることは、古くは中国の纏足、西欧のコルセット、現在では豊胸手術や美容整形のように、男の性欲を一層刺激するように女の身体を改良する試みが絶えないことからも分かるというものである。

| 性的SM論 | 05:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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フロイドのマゾヒズム

フロイドはマゾヒズムに関して(1)性感的(2)女性的(3)道徳的の3つの形態を区別したが、女性的マゾヒズムは女の本質(Wesen)の一表現であると言っている。この「本質」という言葉をどのように理解すべきか意見の分かれるところだと思うが、いずれにせよ、自分を傷つけ苦しめ貶めるマゾヒズムが本能だというようなことはあり得ない訳で、フロイドのこの見解は、人間の女というものは、自然界の雌と違って作られるものであって、作られるものとしての女の役割には性交において男に犯される屈辱を引き受けることが含まれているのだから、女になる為にはその本質にある程度のマゾヒズムを組み込まざるを得ないという意味だとしか考えられないと思われるのである。この屈辱を引き受けるのを拒否したものは女になれないのであり、女ではないのである。

S女性はM男と原則性交しないと言われている。性交はしないけれどM男からしてみればS女性は紛れもなく女である。つまりフロイドが言う女とは性交することを前提とした女を女と定義付けしているように思われる。性交しない女も女として認められることをフロイドは理解しなかったのであろうか。従って性交しない女は、この屈辱を引き受けなくとも女と認められるので、マゾヒズムが女の本質だというフロイドの見解には同意できない。

生物学的本能であるはずのないマゾヒズムを組み込まなければ、性交する女になれないと言うことは、言い換えれば、性交する女とは、動物の雌と違って、生物学的存在ではないと言うことである。もちろん性交しない女も(繁殖行動をしないのだから)当然生物学的存在ではないことは言うまでもない。
これは女だけではなく、男にも逆説的に言えることである。人間は男も女もある意味(自然的)本質ではなく、作られたものであるという(社会的or文化的)本質をもっているのである。

| 性的SM論 | 08:03 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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屈辱に対して屈辱をもって報いる

男に対して、わざと乳房や太腿がちらっと覗けるかのような身の動かし方をしたり、横に来て胸のふくらみが感じられるほど身体をすりつけてきたり、いろいろ気を引くような話をいっぱいして、男がすっかりその気になってセックスへと誘うと、何とかかんとか口実を設けてOKしないが、たまたま今日は都合が悪いのだと男に思わせる余地は残しており、男の方も、こんなに若くて清純そうな女の子がまさか男をからかうとは信じられないし、次にあった時、また同じようにいかにも誘ってもらいたそうな態度を示すので、男がまた誘うと、やはりOKしないというようなことを繰り返す女がいるが、この種の女達はやはり男をからかっているのかもしれない。或いは、男と寝る気はないが、自分が誘えば男は自分とセックスしたがるのだということを確認し、自分の性的魅力を自分に対して証明したいだけかもしれない。

もしからかっているのだとすれば、男との関係に屈辱感があって、その復讐として、期待を抱かせられては裏切られるという屈辱を男に与えて楽しんでいるのであろう。屈辱に対して屈辱をもって報いるというのも一つの方法かもしれない。

| 性的SM論 | 05:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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社会的性差別の共同幻想

強姦も買春も、性欲ではなく、女を侮辱することが動機であるから、そうできないことになれば、男達は強姦や女を侮辱することを動機とする買春をやめるであろうと言うことは推察できる。
しかし、男達が強姦や買春によって女を侮辱しようとするのも、そのよりどころとして、性交を男が女を侮辱する為の手段として使うことが出来るという社会の共同幻想があるからであって、この共同幻想がある限り、強姦された、または買春させられた女が、個人として、強姦や買春は屈辱ではないと言い張っても、或いはそう考えても、なかなか屈辱感を払拭することは出来ない。そして、女の屈辱感の匂いを嗅ぎつけて、ある種の男達は強姦や買春をやめないのでは無かろうか。

例えば、人種的差別が強い社会において、被差別人種が侮辱的言辞を吐かれた時、その侮辱的言辞を気にすまいとしても、やはり気になってしまうのではないだろうか。被差別人種がその侮辱が気になり、ひどい心の傷を受けるのは、それが被差別人種の劣等感と共鳴する為であるから、被差別人種自身がこの劣等感から完全に脱却すれば、彼への侮辱は気にならなくなるであろうが、人種的差別が強い社会では被差別人種もその影響を逃れるのは難しく、劣等感を持たないでいることが難しいと思われる。

同じように、性差別においても、社会の性差別的共同幻想を完全に克服できた時には、女を強姦して侮辱してやったと思う男はいなくなるのであると思われる。

| 性的SM論 | 06:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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