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鬼縄のSM blog(FC2改)

鬼縄のSMブログです。淫靡な妄想の世界を彷徨っています。

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女を貶めないと不能になる男3

女を貶めないと不能になる男が、どれくらいいるかは分からないが、男にとって、幼い時からの母親との情緒関係を断ち切るのは大変なことであって、多くの男が多かれ少なかれそれに失敗しており、母親と同じ「女」に対して同時に情緒関係と性関係を持つことにいくらかは困難を感じる男、性関係を持つために相手の女を情緒関係から、少なくとも性交の時だけでも排除しようとする傾向がある。
普段は優しいのに、性交の時だけは攻撃的になり、女を侮辱したがるとかという男は結構いるのではないか。

雌を獲得するために他の雄と争う雄や、逃げる雌を追っかける雄など、動物の例をもってきて、雄(男)の性欲と攻撃性を結びつける説もあるが、人類の男においても性欲と攻撃性がしばしば結びついていることは確かではあるが、この結びつきを動物の本能で説明することには抵抗がある。

人類は本能が壊れている。売春婦が相手でなければ不能になる本能とか、性交の前に、またはその途中に女を侮辱する本能なんてものがある訳がないのである。
まだ母親から十分に解放されていない男(ほとんどの男がそうであろう)が、性関係において、相手の女の中に自分を不能に引き戻そうとする母親のイメージが紛れ込むのを防ごうとして、必死にそれを振り払おうとする時、男は攻撃的になると思われる。この攻撃性は男の不能対策と考えることが出来る。

女を貶めないと不能になる男が不能から脱するためには、女にとって屈辱的な形で性交することが必要なのかもしれない。この種の男は結構いるので、男の基本的不能をどうにかしなければならない人類の性分化の一環として、女にとって性交は屈辱であるとする共同幻想が成立したのではないか。この種の男は女にとって性交は屈辱であると思いたいのである。そう思わないと、不能に陥るのである。

| 性的SM論 | 20:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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女を貶めないと不能になる男2

女を貶めないと不能になる男は、女の側から言えば、彼にセックスを求められたと言うことは自分が軽く見られていると言うことであり、彼の求めに応じてセックスを許せば、ますます自分を「下賤な女」として軽く見るようになるので、彼と性関係を持つ訳にはゆかないであろう。
その内彼が態度を改めてくれるかもしれないと期待し、一時の我慢だと思って彼を受け入れたりすると、ますますひどいことになる。

彼に軽く見られまいとして、彼とのセックスを拒否すれば、彼は自分に敬意を払ってくれ、自分を愛してくれるかもしれないが、彼の「愛」は現実の自分を通り越してどこかに彼が描いているある架空のイメージに向けられ、現実の自分は置いてきぼりにされるので、彼と現実的なレベルでの人間関係を持つことは出来ない。
愛と性が切り離されると、性が歪むだけでなく、愛も歪み、むなしく空回りする。しかし、愛と性を無理矢理観念的に一致させたところで問題が解決する訳でもない。この辺りは難しいところである。

結局、女を貶めないと不能になる男からは、女は逃げ出すしか方法はないのかもしれない。
しかし、SMを上手く利用すれば解決できるかもしれない。

| 性的SM論 | 18:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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女を貶めないと不能になる男

女を貶めないと不能になる男がいる。
ある意味私もそうである。

その昔、ほとんどタダみたいな安い給金で雇った「下女」をいくら粗末に扱っても良かった時代、次から次へともっぱら下女ばかり手を付ける男がいたし、現在でも、売春婦以外の女に対しては不能で、売春婦しか相手に出来ない男がいるが、彼はこの種の男であろう。
彼が売春婦に払うお金は女を穢す罪を償うためという意味を持っているのであろうか。

性交の前に相手の女を鞭打ったり、殴ったり、侮辱したりするサディストも、この種の男であろう。鞭打ちや殴打や侮辱は女を「穢していい下賤な女」に貶めるために必要であって、そうしないと彼は不能なのである。
主従のSMの場合、確かに女を階級的に奴隷の位置に落とすのであるから、間違いなく貶めている。私のような上位にいる女を責めによって貶める妄想というのも、上位にいられたのでは手も足も出ないので、卑怯な手でもなんでもいいから責めによって貶めることによって、はじめて性の対象と出来る女にする事が出来るという意味ではこの種の男と同じであろう。
ただしSMの場合は、擬似的に女を「穢していい下賤な女」に貶めるのであって、それも同意を得て、更に自分の力で貶めるのであって、最初から自分より「下賤」な女を相手にする訳ではない。

同等に扱うには疑問と抵抗もあるが、強姦するという形でしか性交できない男も同類かもしれない。

彼は、不能であり続けるか、女を穢し、侮辱して「もの」に貶める形で性交するかの二者択一に追い詰められているのである。
彼は、どう扱っても言い「下賤な女」と見なしていた相手が、性交の途中、何かのことで毅然とした態度を取ったり、支配的に振る舞ったりすると、言い換えれば、自分の意志を持つ存在であることを示すと、とたんにペニスが萎え、不能になる危険が増大するのである。

女としてはこの種の男と付き合うのはきっと大変なことであろうと思われる。

| 性的SM論 | 20:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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二極の階級

ある種の男は、母親に対するように敬意を払わなければならない女、何らかの点で自分より上位にある女に対してしばしば不能であるし、愛を感じた女とは性交する気になれなかったりするらしい。多分、性交すれば、相手の女を穢すような気がするのだろう。それは根拠のない不安ではなく、まさに彼の性欲は愛から切り離されていて、女を単なる性的道具として扱うものであるから、彼は性交すれば実際に相手の女を穢し、人格的に侮辱することになってしまうのである。従って、彼は穢してもいいと思える目下の女、下賤な女しか性的には相手に出来ないのである。
それ以外の女に対して彼が不能なのは、身体的、生理的原因によるのでは全然なく、気が弱いからでもなく、彼にとっては、実は人間として当然のことなのである。彼には、愛する女を穢したり、傷つけたくないという良心のかけらが残っているからである。彼のような男は、穢してはならない女、穢してもいい女というように、女を二極の階級に別けるのである。

| 性的SM論 | 20:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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愛の支配から独立するための男の性交

ある種の男が愛と性を切り離そうとするのも不能対策の一つではないかと考えられている。D・ディナースタイン(『性幻想と不安』)によると、男が愛と性を切り離し、愛していない女とでも、いやむしろ愛していない女とこそ性交したがるのは、母親に育てられ、母親との情緒的しがらみから十分に解放されていないからである。すなわち、男の子は、幼い頃、母親に支配され、情緒的に絡め取られ、性的に刺激され、母親との関係において、愛され保護される幸福と同時に支配され束縛される屈辱と息苦しさを味わっていた。男の子が男になり、性能力を獲得するためには、幼児性欲すなわち前性器性欲から性器性欲へと移行し、母親から解放され、精神的にも性的にも独立しなければならない。性器性欲という新しい形の性欲は、母親からの独立の足場であり、この足場はそれまでの母親との湿っぽい情緒の絡んだ不能と屈辱の関係に浸食されてはならない。これが、愛と言えば、支配され保護される形の愛しか知らず、そこから逃れて独立しようとあがく男が新しく現れた、母親以外の女に大して取りがちな態度の一つである。

彼は、相手の女を単なる性的道具として扱い、敢えて性交を性欲を処理するために必要な生理現象と見なし、機械的、事務的、即物的に性交しようとする。このような性交は、女にとってあからさまに屈辱的であるだけでなく、男にとってもはなはだ貧困な味気ないものとならざるを得ないが、それでも彼は、愛の絡んだ性交をして相手の女に情緒的に巻き込まれ、呑み込まれる恐怖に耐えられないのである。彼は、次から次へと女を漁るかもしれないが、そうするのは、数多くの女を征服して自慢の種にするためでもあるけれど、もう一つの理由は、一人の女との関係を長く続けると、その内情に流され、とっつかまってしまうのではないかと恐れるからである。

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| 性的SM論 | 19:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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マルキ・ド・サドのSM

サディズムをカトリシズムの私生児として位置づけたのは、19世紀末のフランスのデカダン小説家ユイスマンスと言われている。
マルキ・ド・サドの生きたフランスは、既に啓蒙主義の洗礼を受けていたし、貴族の次男、三男が軍隊に入る代わりに聖職者になったにもかかわらず、娼館に通うなど自堕落な生活を送ったり、一部の修道院が性的にスキャンダラスであったことが知られていた。だからこそ保守的なキリスト教徒は、より厳格なモラルを求める。

時代は折しも「フランス革命」という、反体制派の政治活動家達が結集し成功を収める大イベントを迎えた訳だが、サドの場合は、宗教的反体制分子であったのだ。
サドを鞭を振り回すだけの変態作家というイメージだけを抱いていたのでは、何故19世紀末に再評価され始め、今日に至るまでサド研究が続けられているのか、到底理解できるところではない。SM小説を期待して読み始めた私など、猥褻な場面が意外に少なく、反神・自然絶対主義的論説の長さ、犯罪的遊蕩を正当化させる論説にうんざりしてしまったほどである。

サドは「リベルタン」と呼ばれる。「リベルタン」とは「自由思想家」「遊蕩者」「不信心者」、ときには「無神論者」と訳されるが、サドの場合は、どうやら「無神」ということにはならないだろうと思う。
サドの多くの物語の根底にあるのはアンチ・カトリシズムであり、「涜神」による人間解放の思想と言われている。あくまでもカトリシズムの存在を前提とし、「神」の存在に拘っている。だからこそ、わざわざ復活祭の日曜日に遊蕩したり、十字架や聖書を踏みつけたり、聖体のパンを精液で汚したりといった行為に意義が生じるのである。このような黒ミサ的儀式は、カトリックにおけるミサの秘蹟を無視しては成り立ち得ないのである。

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| 性的SM論 | 16:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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愛と性の一致と分離

一般に、あくまで一般論であるが、女は愛と性が一致し、愛する男としか性交したがらないが、男は愛と性を切り離しており、別に愛している訳ではない女とでもためらいなく性交できるし、いやむしろ、愛していない女を次々とたくさん犯したがると言われている。

女の中にはこうした違いを知らず、愛する相手としか性交したくない自分を基準にして判断すると、女は、自分を愛しておらず、ただ自分の身体だけが目当てで近づいてきた男をそうとわからず、性交を求められたと言う事だけで、自分を愛していると誤解する事がある。そんな女がいるのかと思われるかもしれないが、精神心理学の本などにはそう思う女が意外に多くいると指摘しているのである。

彼女たちが世の中には女に関してその性器にしか用のない男、自分についても他の面には一切無関心で性器にしか用のない男がいると言う事を理解するのは、かなりの男体験をした後の事である。

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| 性的SM論 | 06:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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SMは根源的な幻想

前戯が行われるのは性器等の性感帯を物理的に刺激して興奮させるためではなく、性に関する様々な幻想を呼び起こして調整し、性交可能な心理態勢にもってゆくためであると言われている。
人間の性能力は幻想に支えられているのだから、このような幻想の喚起と調整はその度毎に行わねばならず、それに失敗すれば不能に陥るのである。男と女が性交できるようになるためには、性交の前にそれぞれの幻想を擦り合わせ調整して、二人の間に共同幻想を築かなければならないのだから大変なのである。

この説明はノーマルな性交の前の前戯に関して説明されたものだが、SMはまさにこの幻想の擦り合わせと調整を性交の準備としてではなく、目的としていることに他ならない。SMにおいて二人の幻想の擦り合わせと調整に失敗すれば、二人の関係性自体が成立できなくなる。

男が、女がほかの女や男では性関係を構築できないという場合、それは、性に関するそれぞれの幻想に共通点がなく、または見つからず、その二人の間に性の共同幻想が築けないからであろう。
つまり、前戯は性のタブーをなし崩しにしながら不能の危険を克服するため、そして、性交を可能にする共同幻想を築くために必要であると考えられるのである。

更に、性のタブーは、不能対策の一つであるだけでなく、その機能はもっと根本的なものであって、本能に支えられない人間の性欲をそもそも性のタブーが支えているのではないかと考えられるのである。言い換えれば、人間の性欲は性のタブーがあるからこそ存在しているのではないか。
SMはまさに性のタブーの一つであるので、人間の根源的な幻想の一つであると言えるのではないだろうか。

| 性的SM論 | 03:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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性のタブーの必要性

人間は、特に男は、性交が可能になる性器期に移行しても、不能に逆戻りする危険は常にあるから、この危険を防ぐ為にも性のタブーが必要だと言われている。
女がまったく性のタブーを欠いていて、恥ずかしげもなく目の前で大股を広げ、性交を強要してくれば、大抵の男は不能に陥るであろうと思われる。何故なら、こういう場合、男は内的な不能の危険を乗り越える時間的余裕を持てないからである。

男が、最終的には受け入れてくれそうでありながら、恥ずかしがってためらい、拒否しそうなそぶりを示したり、ちょっと抵抗して見せたりする女を好むのは、単なる趣味の問題ではなく、自分の内的な不能の危険を相手の女の拒否や抵抗という外的な障壁の形に外在化し、この外的な障壁を乗り越えるという形で内的な不能の危険を乗り越える必要があるからである。女が一つ小さな抵抗を解いて譲る度に、男は不能の危険を一つ減らすのである。こういう操作が性交の前の前戯に含まれていると思われる。
SMプレイなどはこういう意味での前戯を目的化したものではないのかと考えられないだろうか。

| 性的SM論 | 04:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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不能対策としての性のタブー

性のタブーが存在するのは、人間には発情期が無く、言い換えればいつでも発情しているので、そのまま自由にしておくと性行為ばかりに耽って社会生活が保てないから、セックスが許される時間と場所と相手を限定しておく必要がある為であるとか、或いは、人間は獣とは違い、羞恥心を持っているのだから、性のタブーがあるのは当然であり、セックスのようなことは人目に付かないように隠れてすべきであるとか、或いは、本来、性エネルギーは生命肯定的で建設的であるが、抑圧されると、澱んで腐り、破壊エネルギーに変質するので、権力者は民衆のそのような破壊エネルギーをまとめて対外戦争などに利用して権力を拡大する為に、性のタブーを作って性を抑圧し、破壊エネルギーを作り出そうとしたのだとか、性のタブーの起源については、いろいろな説がある。

これらの説はいずれも、それが何らかの理由の為に外から個人に押し付けられたとしているが、外から押し付けられたものなら、そのようなものは無視したり反抗して拒絶したりする人が必ず一定の割合でいるはずである。しかし、性のタブーを一切抱いていないという人はいないように思われるのである。しかも性的タブーは、我々一人一人の内面に深く食い込んでいると思われる。

性のタブーは、外から押し付けられたのではなく、個人が何らかの理由で自ら必要としたのではないかと考えられるのである。
つまり、性のタブーは自分の不能を正当化する為に、不能の屈辱から自分を救済する為に個人が自ら必要としたのではないかという考えである。

| 性的SM論 | 05:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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