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2009.09.27 Sun
SMプレイにおける男性Sは、普通のセックスに飽きたか、正常な性交では、己へのコンプレックスからか、相手を充分に満足させられないとの強迫観念を持っているか、倒錯趣味によってしか性欲が沸かないか、それとも女性Mを悦ばす為の奉仕役になるかのいずれかの動機を持っていると思われる。逆に言えば、やたら精力旺盛で、射精を繰り返すことにしか関心のない動物的な男性は、想像力を用いたSMを楽しむ余裕に欠けるきらいがある。
団鬼六官能小説では、男性・女性を問わず、復讐心によるサディスティックな行為が描かれることが多い。
中には、社会階級の下のものが上のものをいたぶるという、性倒錯に社会的逆転が加わった「階級闘争」の様相を帯び、財産を全て奪われ、凌辱されたあげく、絞首刑に処せられるという、まるで社会主義革命のパロディのような作品もある。
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鬼六の小説は、普通なら手に入れられない女をアクドイ手段か金の力で無理やり手に入れるという、男性には夢のような暖かい話でもあって、小説に登場するサディスティック男性は成り上がりか悪党が多い。
小説の発想も前述のように逆転劇に近いような気がする。だから、うだつの上がらない男の救済もしくはウサを晴らすための意味合いも多い気がするのである。
ですから西欧サディストの絶対的権力者が嗜む、貴族社会の快楽追求とは少々趣が異なるかなと思うのです。それらは神に選ばれし血族が誇るものであり、逆転劇ではないですから。
ですから、我々鬼六の小説ファンは日常では女性にコンプレックスがある男が多く、また、優しい男が多いのではないかと思うのです。
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| 鬼縄のつぶやき
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2009.09.23 Wed
巷では「セクハラ」と非難されるのを恐れて、性的なるものに神経過敏な人々が増えているように思われるし、「ジェンダー・フリー」や「フェミニズム」など、これまでの性のあり方に疑問が投げかけられる時代になった。だからこそ、団鬼六の男性原理だけで成り立っている、荒唐無稽の超セクハラ作品に、溜飲を下げる者がいても不思議ではない。
鬼六は、「快楽を求めること、これが本当の成熟だと思うんですよ。未成熟の人間は幸せを求めます」と、説明する。そう言えば「幸せな家庭生活」とは言うが、「家庭生活の快楽」とは言わない。「幸福」とは、フツウの人々若しくは小市民が願うもの、と鬼六先生は捉えているのかもしれない。「平凡な幸せ」という言い方がそれを象徴している。
鬼六に限らず、幸福より快楽を追求するのは、むしろリベルタンやダンディを気取る人々の、いわば伝統的なライフスタイル若しくはポーズだ。例えば19世紀末英国で、同性愛スキャンダルが元で2年の懲役に服さなければならなかった作家・オスカー・ワイルドについて、アンドレ・ジイドは「彼は、人が義務に赴くごとく快楽に行った」と記している。そうなのだ、彼らにとって「快楽」は、「義務」であり、また自己のアイデンティティを確立するために、そして道徳や制度に厳格な小市民との差別化を図るためにも、必要不可欠なのだ。
文化は常に、いかがわしさをも内包する。
ワイルドは作品の中でも「快楽」にこだわる有産階級のダンディ達を描く。彼らの台詞を、いくつかご紹介しよう。
「教養のある者は、快楽を悔いることはないし、教養のない者は、快楽が何であるかを、全く知らない」
「快楽は唯一の生き甲斐だ。幸福ほど人を老けさせるものはない」
「今日では、人を慰めるのは後悔ではなく快楽である」
「単純な快楽は、複雑な人々の最後の逃げ場である」
「タバコは、快楽の完全な型である」
健康という幸福な状態を維持するために、禁煙や節煙したのでは、「快楽」提唱者としては失格という訳なのであろう。
| 鬼縄のつぶやき
| 18:39
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2009.09.09 Wed
私は自分の女が結婚しているか、独身なのかはさほど問題にしない。
結婚している女でも、私が必要とされ、「私の女」として実感できる女であれば、私はその女を愛し大事にするであろう。
しかし例え独身であっても、私をないがしろにし、私に軸足を置かず、重心を他の男に移せばそれはもう「私の女」ではないのだ。その時、私は不要な男となる。
「結婚」は単なる制度であって、SMや愛を測るものさしにはなり得ないのだ。愛するから結婚する。結婚しているから愛がある。などという理想は理解するが、それを信用するほど甘い男ではない。
だから結婚していることが私のSMの障害にはならない。ものさしとなるのは制度ではなく、その心なのである。
SMは非日常の行為である。日常からは私のSMは生まれない。結婚はかえって邪魔な物である。だから私は結婚をしない。SMを生涯のものさしにしているのである。
| 鬼縄のつぶやき
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2009.06.13 Sat
私の女は、今までどの女と情景を楽しんでも見ることの出来なかった『風情』をかもしだしてくれる。人は無いものを表現する事は出来ない。この女の内面には日本の美学を感じる。美しい。その女の美しさをもっと見たい。だから私は責めるのである。それは女には酷な事かもしれないが、俺はその美を求めてやまない。
私はこの女の「美」を得るために、数千万円の借金をしたのである。
私はこの女に真剣なのである。だからこそ私はこの女に私の全てをを残そうと思う。
それとたまに、妄想の女とセックスはするのかという質問を頂く。
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SM愛好家の中にはセックスを必要不可分とする嗜好の持ち主もいるし、それを目的とする方々もいらっしゃるようである。
情緒を壊すようであるが、答えておこうと思う。
この女とはセックスはしていない。俺がセックスに興味がない事もあるし、この女は結婚相手としかセックスはしたくないという。この思想こそ俺が妄想(SM)にも求めている古き良き日本の伝統文化でもある。それに俺には元々興味のない分野であるし、この女の美学を汚すつもりもない。美しいからこそ責める価値があるというものだからな。
俺には妄想(SM)があれば十分さ。私にとっては挿入(セックス)なんぞにはそれほど価値がないのである。その価値観は、この女の結婚相手にくれてやるとしよう。
私にとって大事なのは、まさに肉体よりも被虐の精神性なのであるから。。。
ふふふ。
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| 鬼縄のつぶやき
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2009.06.04 Thu
女を恨んで生きる鬼縄と、女を愛する鬼縄とどちらがいいでしょうか?
女を恨んで生きる鬼縄とは、団鬼六の小説に登場する、女性にモテなかったことがサディズムの原因になった男、「檻に棲む令嬢」の大月五郎のようなキャラがSMブログを書く男としては似合うのではないかと思って設定したキャラである。
素行調査で日頃の放蕩ぶりを知られ、縁談を断られたことを逆恨みして女を凌辱する「緋の花」の正太郎という男もふられたことが原因でSMするのであるから、鬼縄のキャラとしてもいいのではないかと考えていた。
またそういう部分も実際私にもあった。
自分のことを棚に上げ、去っていった女達を多少なりとも恨んでいた部分もあった。でもその反面、その女達に救われた自分もいたのである。だから大いに感謝もしていたのである。
私は今、自分の女を愛している。嗜好と愛が一致することほど幸せなことはない。愛するからこそ自分の嗜好をぶつけられるという嬉しさでいっぱいである。
女を愛する鬼縄もまんざら悪くはあるまい。と、思う。。。
| 鬼縄のつぶやき
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2009.05.31 Sun
よく愛があるからSMが出来るのだと言う人がいる。これだと愛していないとSMは出来ないことになるので、私のようにSMをしないと愛せない男は永遠にSMは出来ないことになると思っていた。
確かに最初の段階では嗜好が優先する。一口にSMと言ってもその嗜好は千差万別、左から右側、前から奥の方まで幅広いSMが存在する。だからこの嗜好が一致しないと長くは続かないのはもちろんだが、嗜好が一致しただけでも多分駄目なのだと思う。
やはりそこに「愛」が生まれなければこれも長続きしないのである。愛が存在しない嗜好だけのSMは最初の内はそれでもいいだろうが、どうしても味気ないものになって色あせていく。
SM嗜好は私の本質であるが、それが全てではもちろんない。SM嗜好は必要条件であるが、充分条件ではないのだ。
「愛」が存在する関係こそ嗜好も永続させる。「愛」は条件ではないが、結果として必要なものである。それが生まれないと二人の関係は終わってしまうだろう。
私がパートナー募集をやめたのも、私の女に「愛」を感じているからである。「愛」を感じた私には、もう嗜好だけのSMは出来ないのである。
だから、今の私は、愛するから責めるのだよと、自信を持って私の女に言える。
| 鬼縄のつぶやき
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2009.02.09 Mon
ありがたいことに、この鬼縄のブログを定期的に購読してくれる人がいるようである。その人達には、あまり更新しないブログなので、大変申し訳なくいつも思っています。だって見に来てくれているのに、なんだよ。まだ更新していないのかよ。と、言う声が聞こえてくるのですから。。。。
このブログもそうですが、私という男は実は期待を裏切る人間なのです。古くは親の期待を裏切り、学生時代は学校の先生の期待を裏切り、就職しては会社の期待を裏切り、SMにおいてはM女の期待を裏切りという、まさに裏切りの人生を送ってきた訳です。私を知る人間は「確かに!」と頷かれることでしょう。
だけどこの期待を裏切るという行為こそ、スリリングであり、SM的だと私は思うんですけどね。如何でしょう。。。。
期待に応えることほど難しいことはないのですよ。期待に応えようとして崩れていった人間を私は結構見ています。まじめな人間ほど期待に応えようとする。私はそういう人間ではないので、期待には応えない。というか、期待に背くことを信条としている逆説的まじめ人間なのですよ。裏切る行為に快感さえ覚えるのです。
いけないでしょうか。。。。
ふふふふ。。。。。
と言う訳で、このブログにアクセスしていただいている人に記事の更新の期待を裏切る行為を正当化するという免罪符を記した訳でございます。
単なるいい訳という解釈も当然成立しますね。。。。
しかし、SMという世界。愛という概念と裏切りという概念とどちらが似合うでしょうか。。
ふふふふ。。。。
| 鬼縄のつぶやき
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2008.12.18 Thu
恨まれるようなことをしているのだから、恨まれるのは当然なのだが、それと同じくらい好かれてもしまうのだ。特に女には好かれる。女を恨んでいる割には女に好かれるのである。ありがたいことである。どちらかというと女をふっている方が多い。申し訳ないとは思っているが、多くの女を相手に出来るほどスーパーマンではないのだ。3000人の女を縛ったとかいうプロの縄師の話も聞くけど、私にはそういう真似は出来ない。セミプロでも300人という人がいたけどね。私が過去に縛った女は、実は10人もいないのである。今でもお申込みはあるが、ほとんどお断りしている状態です。それでもこの女はと思って受け入れると、女の方から断ってくる。断るくらいなら申し込んでくるなよと言いたいくらいだけど、現実にはそんなものでしょ。私も私の女もSMにおいては複数を否定していないので、嗜好が合えばお相手をするjことは可能なのだが、なかなかそうはいかないところが、私が縄師にはなれない所以でしょう。
人妻を縛ってその夫に私が恨まれるというのは理解できるが、私の女を縛った男が私を恨むと言うことがあるのは非常に困る。私は自分の女の自由を認めているので、他の男と寝たり縛られたりすることを認めているのだが、しばらくすればそれは終わることになる。。その時に私は恨まれたりするのである。その男にしてみれば、私に取られたと思うのであろうが、私にしてみれば、そもそも俺の女を縛っておいて逆恨みするなど言語道断だと思う訳なのである。
もっと極論すれば、人妻であってもSMにおいては私の女になり得るのである。私が私の女と婚姻していないからと言って、私との関係を恨むなどと言うことは筋違いな話なのである。
そもそも誰の女かなどという所有意識がおかしいのである。私の女も私の女ではなく、彼の女も彼の女ではないのである。決めるのはその女なのである。だからあなたの奥様も私の女と言うこともSMにおいては起こるのですよ。ふふふふ。。。。。
だから私は恨まれるのか・・・・・。。
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2008.10.20 Mon
女は途中で急にいなくなる。メールを突然よこさなくなる。返事を突然よこさなくなる。
この手法は私もよく使うが、実は女どもに教わった手法なのである。昔の私はもっと律儀であった。
女に教わったことは結構多い。一人の相手に執着してはいけないというのも女に教わったのである。愛を誓った相手をふってもいいということも女に教わった。天秤に掛けてもいいと言うことも女に教わった。女を信用してはいけないと言うことも女に教わった。他にもいろいろ教わった。それが今の私を形成しているのである。
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2008.05.07 Wed
「妄想の女」は私の妄想を具現しようとプレイをした訳ではない。どちらかというとSMプレイには協力的ではなかった。ただ彼女の反応や表情が私の妄想を刺激してしまうのである。実際のプレイが多くの場合妄想を打ち消してしまうことが多い中で、彼女の反応や表情は、かつての官能小説のように私の妄想を膨らませてくれるものであったのだ。
私のSMというものはSMプレイ中のことだけで完結するものではない。SMプレイそのものは私の性欲を満足させる為のものであるが、そこに至る経緯というか、SMプレイを下支えしてくれる条件というか環境というか、そういうものをもっている女こそが「妄想の女」となり得るのである。
少々分かりにくいかもしれないが、何気ない普段の言動が私の求めているSM世界を表現してしまう女というものがいるのである。本人は意識せず私にメールなり、電話なり、しゃべるのであろうがそれが私のSM、つまり嗜虐嗜好を刺激してしまうのである。本人は意識せず、私の嗜好のターゲットにされてしまうのである。ある意味彼女にしてみれば不幸なことである。
学生時代に力を入れると悩ましい声を発する女がいた。もちろん私とはいかがわしい関係ではなかったが、その彼女の声は大いに私の嗜虐嗜好を刺激してくれたものだ。だから私はわざと彼女に力を必要とした作業を依頼したものだ。例えば、固くしまった瓶の蓋を開けてくれないか、というような、もちろん本人はそれによって私の性的興奮を誘っているなどと思いもよらなかったであろう。
このように本人の意識とは全く関係なく私の嗜虐嗜好と関連づけられることがあるのだ。その言葉。その声。その仕草。その・・・・・が、私を喜ばせるのだ。縛られていなくても鬼六の小説の世界の台詞を普段の会話にしてしまう女がいるのだ。逆に縛られていても私の妄想を壊してくれる女もいる。私のSMは行為(プレイ)だけでは完結しないのである。
これは貴女のことを書いたのではありません。一般的な私の想いです。
| 鬼縄のつぶやき
| 08:32
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