私のSMは行為(プレイ)だけでは完結しないのである。
「妄想の女」は私の妄想を具現しようとプレイをした訳ではない。どちらかというとSMプレイには協力的ではなかった。ただ彼女の反応や表情が私の妄想を刺激してしまうのである。実際のプレイが多くの場合妄想を打ち消してしまうことが多い中で、彼女の反応や表情は、かつての官能小説のように私の妄想を膨らませてくれるものであったのだ。
私のSMというものはSMプレイ中のことだけで完結するものではない。SMプレイそのものは私の性欲を満足させる為のものであるが、そこに至る経緯というか、SMプレイを下支えしてくれる条件というか環境というか、そういうものをもっている女こそが「妄想の女」となり得るのである。
少々分かりにくいかもしれないが、何気ない普段の言動が私の求めているSM世界を表現してしまう女というものがいるのである。本人は意識せず私にメールなり、電話なり、しゃべるのであろうがそれが私のSM、つまり嗜虐嗜好を刺激してしまうのである。本人は意識せず、私の嗜好のターゲットにされてしまうのである。ある意味彼女にしてみれば不幸なことである。
学生時代に力を入れると悩ましい声を発する女がいた。もちろん私とはいかがわしい関係ではなかったが、その彼女の声は大いに私の嗜虐嗜好を刺激してくれたものだ。だから私はわざと彼女に力を必要とした作業を依頼したものだ。例えば、固くしまった瓶の蓋を開けてくれないか、というような、もちろん本人はそれによって私の性的興奮を誘っているなどと思いもよらなかったであろう。
このように本人の意識とは全く関係なく私の嗜虐嗜好と関連づけられることがあるのだ。その言葉。その声。その仕草。その・・・・・が、私を喜ばせるのだ。縛られていなくても鬼六の小説の世界の台詞を普段の会話にしてしまう女がいるのだ。逆に縛られていても私の妄想を壊してくれる女もいる。私のSMは行為(プレイ)だけでは完結しないのである。
これは貴女のことを書いたのではありません。一般的な私の想いです。
- 関連記事
-
- 女は私の師である。 (2008/10/20)
- 私のSMは行為(プレイ)だけでは完結しないのである。 (2008/05/07)
- もしかして・・・・ (2008/04/19)
| 鬼縄のつぶやき | 08:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑