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鬼縄のSM blog(FC2改)

鬼縄のSMブログです。淫靡な妄想の世界を彷徨っています。

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何故、「鬼縄ハーレム」を作ったのか?

私のSMは女に苦しみを与え、暗闇の底に落すというのが出発点でした。 私の場合、縛りや責めは目的ではなく手段であるのです。そういう手段を用いて心を責め落して行く。その過程で女が見せてくれる苦悶の表情が私には美しく見えるのです。 しかしながらパートナーとなると、情がうつり、心が優しくなる。私も普通の男ですから次第にSMから外れてしまう。それはそれで良いのですが、やはりSMにとりつかれた男の性でしょうか。どうしても加虐の嗜好が騒ぎ出すのです。 そのような訳で、心情的情緒を排した、己のSMを忠実に表現しようと思い立ち、このようなグループを作ってみたのです。 愛を前提とするSMを求めるなら、ここにはありません。

| 鬼縄のSM | 05:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鬼縄ハーレム

鬼縄ハーレム この鬼縄ハーレムは、鬼縄(SM BOOKの主催者)の奴隷となり、鬼縄に縛られ、責められたい女の為の秘密コミュニティです。 参加するには当然鬼縄の許可が必要です。 身もこころも鬼縄に差し出す覚悟が必要です。生半可な覚悟では参加しない方が身のためです。 参加するには詳細なプロフィールと写真を鬼縄に提出しなければなりません。 鬼縄ハーレムの維持や開催に必要な相応の金銭も差し出していただきます。 参加した以上、勝手に逃げることは出来ません。 全ては鬼縄の意のままに。。これが掟です。 「美しき苦悶」   これが鬼縄が目指すところです。。 興味のある方は、こちらを参照して下さい。 http://groups.yahoo.co.jp/group/oninawa_dorei/

| 鬼縄のSM | 05:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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サービスのS

時々耳にする、SはサービスのS。 支配にしろ陵辱にしろ、本来Sの意のままにするS行為がMへのサービスだと感じてしまうSの疑問である。 この疑問を感じたあなたはSではない可能性がありますよ。 SとMは己の嗜好の下に主体的に関係を結ぶ。どのようなSM嗜好であれ、それは己が求めたものであり強制されてするものではなかったはずだ。 Sは支配を主体的に選択し、Mは服従を主体的に選択し相手を主体的に選別したはずである。けっして強制されて、義務的に選択せざるを得なかった一般社会における男女のような関係ではなかったはずなのである。(Sが男でMが女でなくとも) この疑問はS男性に多く、S女性からはあまり聞いた事がない。。 つまりSとしてMが喜ぶことをするのはサービスではないかという疑問である。 ではあらためて問う。。Mを調教なり責める行為は、Mが喜ぶかどうかという以前にSであるあなたを喜ばせないのか。その行為がSであるあなた自身の喜び、もしくは満足につながらないとしたらS行為自体に喜びを見出せないことになるではないか。 SM行為を通じてSであるあなたも喜び(充足)、その行為の結果Mも喜ぶ(充足)のでなければ一般社会における義務と強制によるセックスとなんら変わりがない。 結婚をしていながら、恋人がいながらSMの世界に足を踏み入れる人は義務と強制ではなく、己の主体による嗜好の実現を求めているはずなのである。 恋人若しくは婚姻相手にSMプレイを求めても、その相手にその喜びがなければそれは義務や強制となる。だからSM嗜好を共有できる相手を探すのではなかったのか。 サービスのSと感じたらその時点であなたはSではなくなったのである。

| 鬼縄のSM | 08:23 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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M性。。。

性的快楽(絶頂=いくこと)はS性ではなくM性だと思っています。 たとえ女を犯す男でも、いく時はM性の発露だと思っています。 SはSのままいくことはできない。 その証拠に、S男には遅漏(いきにくい)が多い。S女には隠れS男の存在が多い。 絶頂はM性の発露ではないでしょうか。 私にもM性はあります。 ただ奴隷という形ではなく、Sとして責められる妄想はあります。 そこで考えてみたのですが、自分がしたいことはされたいこと。されたいことは 相手にしたいこと。。 己の中にある妄想は両面性があるような気がします。 あるS女性にあなたのようなS男を責めてみたいと言われたことがあります。 何故なら、Sとしてのプライドから苦痛を与えられても声を上げない。許しを乞えない。 限界まで耐えるでしょうから。と言うのがその理由でした。 これは私が女に求める妄想でもあります。そういう女を責めで屈服させる。 そして貶めて、最後には奴隷とする。 SもMも紙一重かもしれませんね。。

| 鬼縄のSM | 09:35 | comments:8 | trackbacks:0 | TOP↑

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調教ではなく、責めであり、受難なのである。。

私のような嗜好を西洋では、Damsels in Distress(乙女の受難)と呼ぶことを知った。 今まで私は「被虐の妄想」とか「囚われ(被虐)のヒロイン」、「陵辱と屈服」という言葉で己の嗜好を説明してきた。 「受難」。。この言葉は西洋的ではあるがわかりやすい。。 理不尽な責めを与えられるMは「調教」や「お仕置き」ではなく『受難』なのである。 これからは、『陵辱と受難』の世界と言う事にしよう。。。

| 鬼縄のSM | 09:02 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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私は。。。

私は女が苦しむのが好きだ。 私は女が悶えるのが好きだ。 私は女が悩むのが好きだ。 私は女が羞恥するのが好きだ。 私は女が落ちぶれていくのが好きだ。 私は女が不幸になるのが好きだ。 私は女を憎んでいるのかもしれない。。 いや、憎んでいるのだろう。 そうでなければこんな理不尽な仕打ちはしない。。。 それでも私に縛られる女がいる。 私は偽善を言わない。 慰めを言わない。 「愛」を語らない。 私はもっと本質を見極めたいと思う。 表の世界は偽善だらけだ。 だから彷徨う。だから悩む。 矛盾からはけっして逃れられないが、心の奥の己の声を押し込める 矛盾が一番愚かだ。 偽善に溢れた常識。モラル。道徳。に縛られることはない。 己の声に耳を傾けよう。 そして声をあげよう。。。

| 鬼縄のSM | 08:35 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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状況で責める。

ふふふ。。。。 私は貴女に興味を抱いた。 私の「設定」に身をおくことができるか? 私の「妄想」に酔うことができるか? 私の「設定」や「妄想」は貴女を苦しめるためのものだ。 私の「設定」や「妄想」は、貴女を追い詰め、陵辱し、不条理な屈辱を与え暗闇へと貴女を誘うものだ。 私は女が苦しむのを眺めるのが好きだ。 戸惑い、慄く女に過酷な仕打ちを施すのが好きだ。 からだを責め、心を貶める。 そのために私は女を縛る。 そして貴女はそんな私の興味をひいてしまった。 私のSMは主従ではない。。 そう、御伽噺なのかもしれない。 現実にはあり得ない設定、状況。 しかしその設定、状況に身をおくことが出来れば、現実ではない現実を味わうこ とが出来るものだ。 妄想がわかれば嗜好もわかる。 責めそのものより、責めを受ける状況(設定)が私を欲情させる。 貴女を責めて差し上げましょう。 ふふふ。。。。 ただし、貴女のためではなく、私の邪悪な欲望のためにね。

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| 鬼縄のSM | 08:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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Sの手腕

私のSMは嗜好的には貶めるSMであり、育て上げる調教とは趣を異にしています。 しかし妄想ではなく関係という面からこの話題について述べればMを磨き上げるのは確かに Sの手腕でもありましょう。私もSの端くれですからそういう希望も持っています。 しかしよく考えてみれば、SがMを育てるとは限らない。MがSを育てることだってあります。 特にSが初心者の場合は、ベテランMに磨かれる経験は必要かもしれません。 関係においてはどちらがどちらをということばかりでなく相互に磨き合うこともあるでしょう。。 要はお互いがその存在を必要としあう関係が望ましい。 その意味でSMを依存の道具にしている傾向があるのは、私にはさみしいことです。 依存ではなく補完関係を築くべきでしょう。。 以前、私はMに被虐の表現を求めるコメントを書いた。 今、私は反省をしている。 Mに被虐の表現が出来る者が少ないのではなく、私がその表現を引き出せなかったのに過ぎなかったのだ。 手腕のあるSならMに被虐表現を充分にさせられる。このことに気付かなかった。 また手腕のあるMならSを妄想世界に引きずり込むことも出来る。 どちらがリードしても構わない。手腕のある者がイニシアチブを取れば良いのだが、 私はMが私の前で充分にその表現を披露してくれる手腕を持ちたいと思っている。

| 鬼縄のSM | 05:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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被虐の表現

被虐の表現とは何か。 からだに与えられる刺激に対する表現ではない。 こういう表現は誰でもする。誰でも出来る。 しかし私はこれを被虐の表現とは言わない。 被虐の表現とは心の表現である。 心を表現するのは難しい。例えば心の中で恥ずかしいと思ってもそれを表情やか らだ、言葉で表現しなければ私には分からない。 多くの場合、恥ずかしいと思うと逆の表現をしたり、恥ずかしいと思うというこ とを隠そうとする。恥ずかしさに耐えるのとは違い、隠してしまうのである。最 悪の場合照れてしまって、情景を台無しにしてしまう女さえいる。 其の方が真実恥ずかしいのであろうが、これでは被虐の情景を創り出せない。 これを表現できる女とは。。。 この心の被虐を表現したいと言う嗜好を持った女だ。 被虐の嗜好ではない。被虐の心を表現する嗜好だ。 鏡に己の被虐を映そうとする嗜好だ。 私は貴女を監視している。 私は貴女の言動を監視している。 それらは私を欲情させてくれる。 ふふふ。。。。。 私は貴女をすでに陵辱しているのだよ。。 私は貴女の中にいる。だから貴女は私からは決して逃げら れない。。 私は女に理想を求めない。そもそも私は女に理想を持たない。 求めるのは嗜好の一致と共有。。 完璧に一致することなどないであろう。だからより一致する、もっと一致する女 を求めるのだ。 私を普通の倫理を持った男と思わないほうが良い。 女を責めて陵辱する男などまともな男ではないのだ。 私は偽善ぶる女を暗闇の底に引きずりこむのが大好きなのですよ。 心では清純な女でありたいと想いながら、からだが言うことを聞かない。 からだを責めれば心も崩れる。がんばって耐えることだな。其の方が私も楽しみ が続くと言うものです。 私は貴女とまだ関係を構築していない。 ただ嗜好がすこぶる同じで興味があると言うだけだ。貴女の内面とその被虐の感 性に惹かれているというだけだ。 ふふふ。。。。。。

| 鬼縄のSM | 10:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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妄想と関係

陵辱と屈辱。責めの妄想。囚われ妄想。を標榜しているSMは何故か少ない。 ネットでの主流は「愛と信頼」の立派なご主人様と従順な奴隷のSMだ。SMと いえば主従しかないと思う人が多いのです。 だからSMを彷徨う人たちは主従のSMに行こうとするのです。 しかし妄想タイプのSM嗜好のほうが本来は多いはずなのです。でも「愛と信頼」を謳ったほうが綺麗 だから、欲望丸出しのワルモノ妄想タイプのSは敬遠される傾向にある。事実、 主従タイプのSのHPではこの妄想タイプのSMを「小説派」と か「レディコミ派」などと称して真のSMではないなどと公言しているところが あるぐらいだ。(苦笑) しかしその主従のSMを経験してみて何かしっくりこないM女さんが多いことも事実なの だ。いわゆるミスマッチ。 私のSMは妄想から始まる。その結果二人の間に何が生まれるかはやってみない とわからない。 最初から主従契約を結ぶ立派なSMとは違うのです。私は理不尽に女を責める酷い男なのだよ。 ふふふ。。。。 私はSMは頭(精神)のものだと思っている。 特に私のような妄想SMはそれが顕著だと思う。 例えば縛られる行為。なんで縛られなければならないのか。それには状況的理由 があるはずである。私の場合、それは女を捕え、責める為である。決して立派な Mにする為に調教するわけではない。 しかし現実にはこれを同意の元に行う。女はある意味希望して私に縛られる。捕 える必要はない。矛盾と言えば矛盾であるがこれが妄想というものである。 その点主従のSMのほうが一見矛盾がなく分かりやすいところがある。同意して 希望という面では奴隷となるのだから矛盾しない。しかし現実に主従を維持して いくことは難しい。主従にこだわればこだわるほど現実との矛盾が露呈してくる。 結局主従と言えども妄想なのである。 彼らはこれに気が付かない。主従の関係を構築したと錯覚してしまうのである。 私が言いたいのはこのSM的妄想と二人の関係を混同してはならないということ である。 妄想を具現する為に主従関係でなければならないということはない。例えば夫婦 関係や恋人関係でもよいのである。妄想は不変であるが、この関係は変化する。 恋人関係が夫婦関係に変わることは良くあることである。主従と言うものを関係論で捉えているの か、妄想で捉えているのかが分かっていないところがある。理解していないから 行き詰まり、悩み、そして崩壊する。 関係論で捉える場合は、妄想でなく現実なのである。関係は変化するものである。最初に決めるものではない。逢う前から決めるから おかしくなるのである。

| 鬼縄のSM | 10:53 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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