多情こそ本質
私は多情を非難しているのではなく、むしろ肯定していて、多情こそ本質的なものだと考えている。むしろ一途の方が欺瞞的であり、偽善的であると考えている。人間の本質的な性欲を認めれば多情こそが自然なのである。しかし道徳やモラルはそれを非難するだろう。一途で唯一の方が世間には受け入れられ、同情され、評価されるのである。
一途で唯一は、「愛」と同様に条件ではなく、結果なのであると私は思っている。結果として一途唯一だったに過ぎず、過程として、条件として一途唯一を持ち出してもあまり意味のないことである。「愛」と同様に一途唯一を条件として考えるから彷徨うのである。
しかも結婚すれば一途唯一を法的にも強要される。更に彷徨うことになる。
「多情」は男の専売特許だと、結構長い間思われてきた。そして男の多情は道徳的にも制度的にも許容されてきた歴史がある。それに比べ、女の多情は認められてこなかったし、下手をすると女の多情は病気として扱われてきた歴史がある。それ故今でも女の多情は、男の多情に比べて非難されやすい。だから女は多情を口にしないし、自己規制してしまう傾向が今でもある。しかし、男も女も多情こそが本質なのである。一途唯一は結果でしかないと、今の私は思っている。
しかし、理屈と感情は別物である。感情も思想や道徳、宗教や歴史から影響を受けるとしても、そういうものからは独立して存在していて、自分自身でも制御できない場合がある。
私が若い頃受けて、更に受け続けてきた女の多情による私の男の屈辱感や嫉妬心は理屈とは別の所に確かに存在してしまう。理不尽ではあるが、女の多情は男のそれに比べ社会的にも非難される傾向がまだ残っているので、更に私の感情である屈辱感や嫉妬心は強く補強されてしまう。今でさえそうなのであるから、私が若い頃受けた「傷」は結構根深い心の澱となって沈殿してしまっているのであろう。
感情と理屈も矛盾を孕む。その矛盾が牙となって女を嗜虐する心が生まれるのかもしれない。矛盾があるからこそSMも成り立つという持論に戻る。
まさに、女の一途唯一を実現するのは私次第と言うことであろうが、本質である多情を抑えるには己をよっぽど磨かなければならぬであろう。
一途で唯一は、「愛」と同様に条件ではなく、結果なのであると私は思っている。結果として一途唯一だったに過ぎず、過程として、条件として一途唯一を持ち出してもあまり意味のないことである。「愛」と同様に一途唯一を条件として考えるから彷徨うのである。
しかも結婚すれば一途唯一を法的にも強要される。更に彷徨うことになる。
「多情」は男の専売特許だと、結構長い間思われてきた。そして男の多情は道徳的にも制度的にも許容されてきた歴史がある。それに比べ、女の多情は認められてこなかったし、下手をすると女の多情は病気として扱われてきた歴史がある。それ故今でも女の多情は、男の多情に比べて非難されやすい。だから女は多情を口にしないし、自己規制してしまう傾向が今でもある。しかし、男も女も多情こそが本質なのである。一途唯一は結果でしかないと、今の私は思っている。
しかし、理屈と感情は別物である。感情も思想や道徳、宗教や歴史から影響を受けるとしても、そういうものからは独立して存在していて、自分自身でも制御できない場合がある。
私が若い頃受けて、更に受け続けてきた女の多情による私の男の屈辱感や嫉妬心は理屈とは別の所に確かに存在してしまう。理不尽ではあるが、女の多情は男のそれに比べ社会的にも非難される傾向がまだ残っているので、更に私の感情である屈辱感や嫉妬心は強く補強されてしまう。今でさえそうなのであるから、私が若い頃受けた「傷」は結構根深い心の澱となって沈殿してしまっているのであろう。
感情と理屈も矛盾を孕む。その矛盾が牙となって女を嗜虐する心が生まれるのかもしれない。矛盾があるからこそSMも成り立つという持論に戻る。
まさに、女の一途唯一を実現するのは私次第と言うことであろうが、本質である多情を抑えるには己をよっぽど磨かなければならぬであろう。
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