私は悪魔の手先
キリスト教ほど性を弾圧した宗教は他にはないと思われる。
キリスト教の初期の教父達の中には、人類の存続のために性交が必要なら、人類なんか滅亡した方がましだと考えていた者もいたぐらいで、その性嫌悪はまさに狂喜の沙汰であった。
どのような文化においても、強い弱いの違いはあれ、ある程度の性のタブーは存在しているが、キリスト教の性のタブーは、あまりセックスに耽りすぎるのは良くないからほどほどにしておこうとか、セックスの事をあまりおおっぴらにするのは恥ずかしいからなるべく隠しておこうとかいった生やさしいものではなく、性に対して他のいかなる宗教、いかなる文化とも比較にならないほど際だって敵対的である。
キリスト教の性否定の例としてよく引用される、『新約聖書』の「コリント人への第1の手紙」(第七章)の中のパウロの言葉である。
それでもこれはまだ、好ましくはないが、やむを得ない事として結婚して性交する事は容認しているので、キリスト者の言葉としてはまだ控えめな方であるようだ。結婚して子供を作るためにする性交すらやむを得ない必要悪なのだから、結婚もしないで、子供を作る目的でもない性交を認め、性こそ人間の本質で人生のベースであるとのたまう私などは最下位の人間、若しくは悪魔の手先と言う事になるだろう。
明治以降西洋文化としてこのような思想も日本に入ってきたが、現代の日本でも似たような考えをもつ人(特に女)は多い。しかしそれが女を辱めるという嗜好を下差さえしてくれているというなんとも皮肉な事になっているのである。
キリスト教の初期の教父達の中には、人類の存続のために性交が必要なら、人類なんか滅亡した方がましだと考えていた者もいたぐらいで、その性嫌悪はまさに狂喜の沙汰であった。
どのような文化においても、強い弱いの違いはあれ、ある程度の性のタブーは存在しているが、キリスト教の性のタブーは、あまりセックスに耽りすぎるのは良くないからほどほどにしておこうとか、セックスの事をあまりおおっぴらにするのは恥ずかしいからなるべく隠しておこうとかいった生やさしいものではなく、性に対して他のいかなる宗教、いかなる文化とも比較にならないほど際だって敵対的である。
キリスト教の性否定の例としてよく引用される、『新約聖書』の「コリント人への第1の手紙」(第七章)の中のパウロの言葉である。
それでもこれはまだ、好ましくはないが、やむを得ない事として結婚して性交する事は容認しているので、キリスト者の言葉としてはまだ控えめな方であるようだ。結婚して子供を作るためにする性交すらやむを得ない必要悪なのだから、結婚もしないで、子供を作る目的でもない性交を認め、性こそ人間の本質で人生のベースであるとのたまう私などは最下位の人間、若しくは悪魔の手先と言う事になるだろう。
明治以降西洋文化としてこのような思想も日本に入ってきたが、現代の日本でも似たような考えをもつ人(特に女)は多い。しかしそれが女を辱めるという嗜好を下差さえしてくれているというなんとも皮肉な事になっているのである。
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