人類の男女は大昔から好いたり好かれたり、性交したり、一緒に暮らしたり、子供を作ったり、結婚したりしてきた。もちろん、嫌いあい、憎みあい、殺しあい、捨てたり捨てられたり離婚したりもしてきた。
そういう男女を結びつける動機というか根拠として恋愛や性欲というものが発明されたのは、西欧の近代においてであると考えられている。西欧で発明されて日本に輸入された訳で、そもそも日本語の「恋愛」や「性欲」は西欧語の訳語として明治時代に作られた言葉だそうである。
では、恋愛や性欲が発明される前の西欧ではどうなっていたかというと、ごく大まかに言えば、近代以前は、男女の関係は神によって結びつけられ、支えられていたのではないかと考えられる。
もちろん、これはタテマエというか原則であって、神が介在しない男女の関係は現実にはいくらでもあっただろうが、そういうのは異端とか不信仰とか不道徳とか、神の戒律に悖ることとして咎められ排除され消されたと考えられている。
ルージュモン(『愛について』鈴木健郎・川村克己訳)によれば、13世紀にローマ・カトリック教会に異端として弾圧され、滅ぼされたキリスト教の一派である、女神を崇めるカタリ派の伝統が、貴婦人への禁じられた思慕を歌った南仏のトルバドゥール(吟遊詩人)に受け継がれ、それが近代の恋愛の先駆けになったとされている。両者は、女神または貴婦人の崇拝や禁欲主義などの点では共通性はあるものの、別個に起こった現象であると考える説もあるが、いずれにしろ、恋愛の起源がキリスト教の異端にあったということは充分考えられる。キリスト教がどういう宗教であるかを見れば、恋愛のような現象が許される余地があるはずがないからである。
そういえばマルキ・ド・サドのSMは女を汚したりはするが、その根底はアンチ・カトリシズムであり、女神または貴婦人を崇めるカタリ派の伝統にも逆説的に通じるところがあるかもしれない。神の意志ではなく己の欲望や気持ちで異性を求めるSMは、まさに神からの解放であり、反逆である。
- 関連記事
-