私のSMは「妄想」の中
私のSMの元は団鬼六先生の小説である。小説のように美しく、気丈で、性的潔癖さを持っている女を辱め、凌辱することを夢見たのである。しかしこれを具現しようとしても現実には矛盾を孕んでしまう。具現しようとすればどうしても演劇的な表現を相手に求めてしまうのであるが、大抵のM女さんはこれを嫌うし、私の気に入るような表現をするのはなかなか難しいのである。どうしても表現は演技になってしまう傾向がある。もちろんそれでも構わないのであるが「演技」というとますますM女さんには嫌われてしまうのである。厳密に言えば私の言う「表現」は「演技」とは違うのですが。
分かりやすく言えば私の「SM」は、結局のところ「ごっこ」なのです。小学生の時に胸を躍らせながらやった「お姫様ごっこ」や「忍者ごっこ」でワルモノに捕まって縛られるヒロインと大差ないのです。
結局のところ私の「SM」に最も近い表現をしてくれたのは「妄想の女」であった。
彼女は私を喜ばせるように表現をしたのではなく、彼女の無意識でする表現が私の求めるものと一致してしまったのである。だから演技にはならなかった。彼女が意識せずにする表情やしぐさや悶え方が私を喜ばせてしまうのである。彼女にとってはこれが口惜しかったようであるが、口惜しいと思うこと自体私を喜ばせてしまうのである。
彼女は「妄想の女」となった。妄想の女となった故に私は頭の中で自由に彼女を責めることができる。実際には出来ないことも頭の中では自由である。私のSMは「妄想」の中でしか得られないのかもしれない。
分かりやすく言えば私の「SM」は、結局のところ「ごっこ」なのです。小学生の時に胸を躍らせながらやった「お姫様ごっこ」や「忍者ごっこ」でワルモノに捕まって縛られるヒロインと大差ないのです。
結局のところ私の「SM」に最も近い表現をしてくれたのは「妄想の女」であった。
彼女は私を喜ばせるように表現をしたのではなく、彼女の無意識でする表現が私の求めるものと一致してしまったのである。だから演技にはならなかった。彼女が意識せずにする表情やしぐさや悶え方が私を喜ばせてしまうのである。彼女にとってはこれが口惜しかったようであるが、口惜しいと思うこと自体私を喜ばせてしまうのである。
彼女は「妄想の女」となった。妄想の女となった故に私は頭の中で自由に彼女を責めることができる。実際には出来ないことも頭の中では自由である。私のSMは「妄想」の中でしか得られないのかもしれない。
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