愛は神への愛が基本であるから、愛そのものは価値あるものであり、ただ、神に無断でほかへ向けられた愛がよくないだけであるが、愛と違って、セックスは男女を結びつける以外には使いようのないものであり、かつ、卑しむべき肉体のいやらしい肉欲の表れであるから、セックスは、キリスト教にとって、恋愛よりはるかに危険で恐るべき商売敵であった。
したがって、キリスト教は、できることなら、セックスをなくしてしまいたかったのである。
しかし、それでは人類が滅亡するし、どうしても自制できない者もいるだろうから、そういうわけにもゆかず、結婚して子供をつくるのに必要な場合のみ、しぶしぶ容認したのである。
したがって、快楽のためなど、子供をつくるのに必要でないいっさいの性行動は禁止された。
避妊や中絶が禁止されたのは快楽のための性交を認めることになるからであり、同性愛が罪であったのは子供をつくるために役立だないからであった。もちろん、マスターベションも罪であった。子供をつくるための性交においても、前戯に時間をかけるとか、いろいろな体位を試してみるとか、余計なことはしてはならなかった。
キリスト教は商売敵をこれほどまでに恐れていた。「宗教」(religion)という言葉は語源的には「結ぶ」という意味だそうであるが、キリスト教は男と女を結ぶことを神の専売特許にしようとしたのである。
神の意志ではなく己の欲望や気持ちで異性を求めるSMは、まさに神からの解放であり、反逆でありその為に同性愛と共に永く異端とされてきた。
マルキ・ド・サドの作品は、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論、キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもあったために、彼は刑務所と精神病院に入れられたのである。
もしかしたら、橋下府知事も同じ運命を辿るかもしれない。本質を語る人間はいつの世も糾弾されるのだ。
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