「愛」は神の独占販売商品であった。
愛の宗教であるキリスト教では、神の国は愛の国であり、すべての愛は神のものであって、神が独占しようとする。
たとえば、今やほとんど形骸化しているが、キリスト教の教会の結婚式では、新郎は新婦に、新婦は新郎に永遠の愛を誓うが、ご存じのように、おたがいに相手に対して誓うのではなく、神に対して誓う。
もちろん、婚姻の秘蹟を受けていない男女の関係は罪であった。つまり、神が介在しないところで男女の愛が成り立ってはならないのであった。神の知らないところで男女が直接に愛し合ったりするのは、神をないがしろにすることであって、神に対する反逆なのである。
つまり、神が愛を独占していて、神を介さずに人が人を愛するのは許されないのである。
宇宙を創造し、おのれに似せて人間をつくり、人間に関するすべてのことを支配する全知全能の神を戴くキリスト教においては、人間はすべての愛を神に捧げるべきであり、したがって、ある人が神の与り知らぬところで勝手に別の対象を愛すれば、神にとっては、それは本来なら自分が独占しているはずのものが、無断で不当にも人間によって勝手に使われたということであった。
恋愛の起源はキリスト教の異端であるというような考えがあるが、それは人が人を直接愛する恋愛は、キリスト教にとっては、いわば、同じ商品を密売する商売敵のようなものであったからである。
つまり、神と恋愛は、人と人、男と女をつなぐという同じ効能をもつ商品を製造販売しているわけで、人が人を神ぬきで直接愛するというようなことをされては、神が独占販売権をもっている商品の昔からの顧客を後から現れた商売敵に取られたようなものであって、そのようなことは断じて許すわけにはゆかなかったのである。
たとえば、今やほとんど形骸化しているが、キリスト教の教会の結婚式では、新郎は新婦に、新婦は新郎に永遠の愛を誓うが、ご存じのように、おたがいに相手に対して誓うのではなく、神に対して誓う。
もちろん、婚姻の秘蹟を受けていない男女の関係は罪であった。つまり、神が介在しないところで男女の愛が成り立ってはならないのであった。神の知らないところで男女が直接に愛し合ったりするのは、神をないがしろにすることであって、神に対する反逆なのである。
つまり、神が愛を独占していて、神を介さずに人が人を愛するのは許されないのである。
宇宙を創造し、おのれに似せて人間をつくり、人間に関するすべてのことを支配する全知全能の神を戴くキリスト教においては、人間はすべての愛を神に捧げるべきであり、したがって、ある人が神の与り知らぬところで勝手に別の対象を愛すれば、神にとっては、それは本来なら自分が独占しているはずのものが、無断で不当にも人間によって勝手に使われたということであった。
恋愛の起源はキリスト教の異端であるというような考えがあるが、それは人が人を直接愛する恋愛は、キリスト教にとっては、いわば、同じ商品を密売する商売敵のようなものであったからである。
つまり、神と恋愛は、人と人、男と女をつなぐという同じ効能をもつ商品を製造販売しているわけで、人が人を神ぬきで直接愛するというようなことをされては、神が独占販売権をもっている商品の昔からの顧客を後から現れた商売敵に取られたようなものであって、そのようなことは断じて許すわけにはゆかなかったのである。
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