SM小説では、Sが嫌がるMではない被害者を無理矢理に意のままに従わせ、支配するというのでなければ、格好が付かないことが多い。そして最終場面では、Mではない被害者はMとなり成長(?)していくのであるが、実際にはほとんどそんなおいしい展開はない。
嫌がる女とSMは出来ないし、Mでない女と無理矢理SMをしたってMには成長しない。合意の上でSMをするMさんは当然SMを嫌がらない。官能小説派の私のようなSが好むSM小説のような状況は、ほとんど具現不可能なのである。
団鬼六先生は、『婦人公論』のエッセイ「SMはセックスの根本である」の中で、「残酷性のないSM、やさしさのあるSM、愛のあるSM、夫婦間のSM、そんなSMが登場してもちっともおかしくない時代になっているのですがね」と予言されていたが、だけどそんなSMでは、官能小説にはならないのだ。
結局私のような官能小説的SM主義者のSMは、子どもの時によくやった「ごっこ」から逃れられないでいるのではないかと思う。
「忍者ごっこ」「お姫様ごっこ」「スパイごっこ」「探偵ごっこ」
それらのごっこの中では捕まって虐められるヒロインが必ず存在していた。そういうヒロイン役をしてくれる女の子が必ずいたのだ。
大人になって(大人になれたのかどうか怪しいところだけど)、つまり性的欲望に目覚めてから、「ごっこ」と性的欲望がくっついたのではないかと思う。そして被虐のヒロイン役をしてくれる
愛する女性を捜し求めるのである。
私には幸運なことに、私の「ごっこ」SM、官能的SMの相手をしてくれる愛すべき女と巡り逢えた。神に、否、悪魔に感謝しよう。。。。
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