MはひとりでもMであるが、SはMという対象があってはじめてSになれるのである。もう少し踏み込んで言うと、Sと認めてくれるMの存在があってはじめてSなのだ。何人のMを抱えるSもいれば、たったひとりのMの為のSもいる。Sの為のMか、Mの為のSかはいろぴろあるだろうが、MがSと認めなければSはSになれないのは事実である。
Mを縛ればSなのか。Mを鞭打てばSなのか。Mに浣腸すればSなのか。
答えは「否」である。
それらは技術であって「嗜好」ではない。縛る技術があってもSになれるとは限らない。それを認めるMの存在があってSとなれるのだ。相性というのもある。あるMにとってはSであるが、別のMにとってはSでも何でもないと言うことはよくある。
このように書くと、いかにもMに認めてもらおうとMに迎合するかのような誤解を与えるようだがそうではない。自分をSと認めないMは実はMではないのだ。他のSにとってはMであったかもしれないが、自分にとってはMでもなんでもないのである。今まで自分にとってMだったが、ある日突然Mではなくなると言うこともある。その瞬間Sではなくなるのだ。
MはひとりになってもMであるが、Sはそうではない。Sと認めてくれるMが存在してSでいられるのである。それがひとりであろうが何百人であろうが構わないのだ。
私はSであると言えるのであろうか。Sの憂鬱はまさにそこにある。
因みに
私はSである。いや、Sでいなければならぬのであるふふふふ。。。。。
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なるほど!^^
確かに認めてもらえなければ、自分の立場もないですよね・・・。
| Yukihiro | 2007/07/14 21:36 | URL | ≫ EDIT