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鬼縄のSMブログです。淫靡な妄想の世界を彷徨っています。

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Sの憂鬱

MはひとりでもMであるが、SはMという対象があってはじめてSになれるのである。もう少し踏み込んで言うと、Sと認めてくれるMの存在があってはじめてSなのだ。何人のMを抱えるSもいれば、たったひとりのMの為のSもいる。Sの為のMか、Mの為のSかはいろぴろあるだろうが、MがSと認めなければSはSになれないのは事実である。
Mを縛ればSなのか。Mを鞭打てばSなのか。Mに浣腸すればSなのか。
答えは「否」である。
それらは技術であって「嗜好」ではない。縛る技術があってもSになれるとは限らない。それを認めるMの存在があってSとなれるのだ。相性というのもある。あるMにとってはSであるが、別のMにとってはSでも何でもないと言うことはよくある。

このように書くと、いかにもMに認めてもらおうとMに迎合するかのような誤解を与えるようだがそうではない。自分をSと認めないMは実はMではないのだ。他のSにとってはMであったかもしれないが、自分にとってはMでもなんでもないのである。今まで自分にとってMだったが、ある日突然Mではなくなると言うこともある。その瞬間Sではなくなるのだ。
MはひとりになってもMであるが、Sはそうではない。Sと認めてくれるMが存在してSでいられるのである。それがひとりであろうが何百人であろうが構わないのだ。

私はSであると言えるのであろうか。Sの憂鬱はまさにそこにある。
因みに私はSである。いや、Sでいなければならぬのである
ふふふふ。。。。。
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| 鬼縄のつぶやき | 08:13 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

なるほど!^^
確かに認めてもらえなければ、自分の立場もないですよね・・・。

| Yukihiro | 2007/07/14 21:36 | URL | ≫ EDIT

コメントありがとうございます。
SとかMというのは相対的なもので成立するものだと思う。Mの一人遊びは成立するが、Sのそれはやはり難しい。嗜好がM的であるからといって私にMであるとは限らない。自分にMであるMを見つけねばならない。私にとってMでないM女性は数多くいるだろう。私はSでいられるか、それが憂鬱の種なのです。

| 鬼縄 | 2007/07/15 15:01 | URL | ≫ EDIT















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