思い出
小学校5、6年の時の思い出にこういうのがある。
クラスでいくつかのグループに分かれて寸劇をすることになった。
私はあるグループのリーダーに選ばれたので、寸劇のストーリーを考えねばならなくなった。私にこういうことをさせるとおのずと方向性が決まってしまう。この頃からすでにSM的妄想を頭の中で描くことは日常的になっていたので、寸劇のストーリーも拷問の場面が織り込まれることになるのは当然の帰結であった。
詳しいストーリーはもう忘れてしまっているが、拷問シーンを描くには忍者モノが一番である。拷問シーンを入れても違和感がないからである。案の定メンバーも素直にこのシーンを受け入れてくれた。もちろん捕まる忍者は「くのいち」でなければなりません。この頃にはもう色気づいていましたからね。
ストーリーが決まれば稽古となるわけだが、他の場面はちょこちょこと済まして、女忍者が捕まって鞭で打たれる場面の稽古ばかりに熱中した。この拷問シーンが上手く表現できないと全体のストーリーが生きてこない。などといっぱしの演出家気取りで、女忍者役の女子生徒を口説いたのだ。その女子生徒はクラスで一番、いや学年でも一、二を争うほどの美人だったと記憶している。その女子生徒に女忍者役を割り振ったのも私である。グループのリーダーだったから配役の権限は持っていた。
その拷問シーンがなかなかうまく出来ないと何度もダメ出しをして発表会の前日まで稽古をした。他の生徒は帰してその場面ばかり二人で熱心に稽古を繰り返したことを覚えている。その女子生徒も結構熱心だった。他の場面を形式的に稽古している間もその女子生徒はけなげにも後ろ手に縛られ、鞭で打たれ、苦痛に歪む演技を一人で練習していたくらいだったからね。私はその熱心さに感動と驚きを覚えたのを今でもはっきり記憶している。
その女子生徒は卒業を待たずに転校していった。確か短期間の在学だったように思う。卒業名簿にも載っていないので同窓会にも姿を見せたことはない。その後彼女はどうなったであろうか。
私は今でも縛る女に演技を求める時がある。それも昔と全く変わっていない。
この寸劇は大衆には全く受けなかった。我がグループは最低の評価だった。しかし私には珠玉の時を与えてくれたのである。
クラスでいくつかのグループに分かれて寸劇をすることになった。
私はあるグループのリーダーに選ばれたので、寸劇のストーリーを考えねばならなくなった。私にこういうことをさせるとおのずと方向性が決まってしまう。この頃からすでにSM的妄想を頭の中で描くことは日常的になっていたので、寸劇のストーリーも拷問の場面が織り込まれることになるのは当然の帰結であった。
詳しいストーリーはもう忘れてしまっているが、拷問シーンを描くには忍者モノが一番である。拷問シーンを入れても違和感がないからである。案の定メンバーも素直にこのシーンを受け入れてくれた。もちろん捕まる忍者は「くのいち」でなければなりません。この頃にはもう色気づいていましたからね。
ストーリーが決まれば稽古となるわけだが、他の場面はちょこちょこと済まして、女忍者が捕まって鞭で打たれる場面の稽古ばかりに熱中した。この拷問シーンが上手く表現できないと全体のストーリーが生きてこない。などといっぱしの演出家気取りで、女忍者役の女子生徒を口説いたのだ。その女子生徒はクラスで一番、いや学年でも一、二を争うほどの美人だったと記憶している。その女子生徒に女忍者役を割り振ったのも私である。グループのリーダーだったから配役の権限は持っていた。
その拷問シーンがなかなかうまく出来ないと何度もダメ出しをして発表会の前日まで稽古をした。他の生徒は帰してその場面ばかり二人で熱心に稽古を繰り返したことを覚えている。その女子生徒も結構熱心だった。他の場面を形式的に稽古している間もその女子生徒はけなげにも後ろ手に縛られ、鞭で打たれ、苦痛に歪む演技を一人で練習していたくらいだったからね。私はその熱心さに感動と驚きを覚えたのを今でもはっきり記憶している。
その女子生徒は卒業を待たずに転校していった。確か短期間の在学だったように思う。卒業名簿にも載っていないので同窓会にも姿を見せたことはない。その後彼女はどうなったであろうか。
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