男は幻想に欲情する。
むしろ、愛情と性欲は無関係と言うより対立していると言った方がいいかもしれない。
これは後述する「幻想に興奮する」とも関連があるがが、私はノーマルのセックスでは満足に男の機能を発揮させることができない。そこに「愛情」と対立する「幻想」をわざわざ抱かねば勃起しないのである。それが私がSMをする理由かもしれない。愛情という精神態度では性欲を満足させられないのである。私がSMを嗜好と言う所以でもある。愛情という精神行動と性欲という精神行動はまさしく無関係に対立している。嗜好(SM)と愛情は無関係なのである。
したがってセックスやSMを愛情表現だとする意見には賛同できない。
男の性欲を誘発するものとして、女の乳房や尻、或いは女が穿くパンツがフェチッシュになるだけでなく、靴や手袋のような女性器とは何の関係のない品物までその対象になることがある。これが男の性欲が本能ではなく幻想に基づいているとすれば理解できるのではないだろうか。
ノーマルな男はたまたま女性器をフェチッシュにしているに過ぎないのである。
女性器にしろ乳房や尻にしろ、或いはパンツや靴にしろ、男が性欲を抱くのはそのものではなく、そのものにまつわる幻想に興奮するのである。
しばしばセックスは現実にやるより空想している方がすばらしいのはそのためである。
あんな魅力的ないい女を抱けたならどんなに幸せだろうと憧れていた女を実際に抱いて失望したり、長年抱き続けている女に男が飽きるのも、幻想が消えるか、すり減るかするからである。
SMが素晴らしいのはこの幻想が擦り減ったり、消滅したりしないところにある。SM状況が共有できればその幻想は果てしないからである。
これは後述する「幻想に興奮する」とも関連があるがが、私はノーマルのセックスでは満足に男の機能を発揮させることができない。そこに「愛情」と対立する「幻想」をわざわざ抱かねば勃起しないのである。それが私がSMをする理由かもしれない。愛情という精神態度では性欲を満足させられないのである。私がSMを嗜好と言う所以でもある。愛情という精神行動と性欲という精神行動はまさしく無関係に対立している。嗜好(SM)と愛情は無関係なのである。
したがってセックスやSMを愛情表現だとする意見には賛同できない。
男の性欲を誘発するものとして、女の乳房や尻、或いは女が穿くパンツがフェチッシュになるだけでなく、靴や手袋のような女性器とは何の関係のない品物までその対象になることがある。これが男の性欲が本能ではなく幻想に基づいているとすれば理解できるのではないだろうか。
ノーマルな男はたまたま女性器をフェチッシュにしているに過ぎないのである。
女性器にしろ乳房や尻にしろ、或いはパンツや靴にしろ、男が性欲を抱くのはそのものではなく、そのものにまつわる幻想に興奮するのである。
しばしばセックスは現実にやるより空想している方がすばらしいのはそのためである。
あんな魅力的ないい女を抱けたならどんなに幸せだろうと憧れていた女を実際に抱いて失望したり、長年抱き続けている女に男が飽きるのも、幻想が消えるか、すり減るかするからである。
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