女の属性。Mの属性。
何はともあれ、女の子は、目の前に女という役割が姿を見せた時、それを引き受けるか、抵抗するかの岐路に立たされる訳であるが、抵抗するより、女という役割を単純に喜び、引き受ける方が多いであろう。引き受けざるを得ないことは明白であるし、また、引き受けた方が楽だし、いろいろ得なこともあるからである。(もちろん損なこともある。)誰だってこれまで自分でも知らなかった自分の何かの属性が他者に歓迎され、他者に役立つことを発見すれば喜ぶのは当然である。M性という恥ずべき自分の属性というか、嗜好がS性の他者に認められ、褒められれば嬉しいというのもこれと似ている。
女の子は自分が女であることを喜んで女としての価値をふまえ、それを生かして生きてゆくことを学ぶ。女としての規範やたしなみを教えられ、それに従って生きてゆくことを学ぶ。中には女という属性を最大限に利用し、これを武器にして己の欲求を実現していく者も現れる。女の属性と共に、SやMの属性を最大限に利用することもこれと同じである。
しかし、女であるという属性は、傍目には女の子がすんなり女の役割を引き受けたように見えようとも、また、女の子自身もそれほど自覚的に女という役割を選択したのではないにせよ、女という役割は、言うまでもなく女に生まれれば本能的に女になる訳ではないので、努力して演じなければならないものである。女の恥じらいを身につけ、それまで別に恥ずかしくもなかったことを恥ずかしがらなければならない。一部の女は、中年にでもなって男達にもてることが期待できなくなると、反動的に、例えば、人前で平気でオナラをしたりするような恥知らずの図々しいおばはんになるが、このことは「女の恥じらい」が無理して身につけた演技であることを示している。男達を引き寄せる効果がないとわかれば、アホらしくて女などやっていられないのである。男の属性ももちろん女の属性と同じく演技であるが、女のそれよりはまだ自然的である。
女の子は自分が女であることを喜んで女としての価値をふまえ、それを生かして生きてゆくことを学ぶ。女としての規範やたしなみを教えられ、それに従って生きてゆくことを学ぶ。中には女という属性を最大限に利用し、これを武器にして己の欲求を実現していく者も現れる。女の属性と共に、SやMの属性を最大限に利用することもこれと同じである。
しかし、女であるという属性は、傍目には女の子がすんなり女の役割を引き受けたように見えようとも、また、女の子自身もそれほど自覚的に女という役割を選択したのではないにせよ、女という役割は、言うまでもなく女に生まれれば本能的に女になる訳ではないので、努力して演じなければならないものである。女の恥じらいを身につけ、それまで別に恥ずかしくもなかったことを恥ずかしがらなければならない。一部の女は、中年にでもなって男達にもてることが期待できなくなると、反動的に、例えば、人前で平気でオナラをしたりするような恥知らずの図々しいおばはんになるが、このことは「女の恥じらい」が無理して身につけた演技であることを示している。男達を引き寄せる効果がないとわかれば、アホらしくて女などやっていられないのである。男の属性ももちろん女の属性と同じく演技であるが、女のそれよりはまだ自然的である。
女の属性と同じようにMの属性も演技的である。「演技」という言葉に反感を持つM女性は多いが、私のような妄想的Sの場合、小説に登場してくるような演技的M女性を求める。実際にはそんな女はいない。と、女性に指摘されるほど私のような男が求める女は、男が作り上げた女なのであろう。
そもそも女の属性そのものが男が作り上げた属性なのである。これに真っ向から反抗する女もいれば、これを最大限に利用する女もいる。女や男の属性、MやSの属性は本能的なものではなく、人間が作り出した文化なのである。だから演技的でも一向に構わないのであって、いなければ作り出すことも可能であり、男が自ら理想とする女になることも出来るのである。
そもそも女の属性そのものが男が作り上げた属性なのである。これに真っ向から反抗する女もいれば、これを最大限に利用する女もいる。女や男の属性、MやSの属性は本能的なものではなく、人間が作り出した文化なのである。だから演技的でも一向に構わないのであって、いなければ作り出すことも可能であり、男が自ら理想とする女になることも出来るのである。
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